徹底して人間的条件をはぎ取られても、なお残存する人間性とは何か、その問題を問いつめるピカレスクロマンの秀作、佐藤亜紀の「ミノタウロス」
この第29回吉川英治文学新人賞受賞の佐藤亜紀の「ミノタウロス」の舞台は、ロシア革命時代のウクライナ。
主人公は、ひょんなことから、地主に成り上がった父を持つ青年ヴァシリ・ペトローヴィチ。
しかし彼は、ひとたび革命が起こると、転落の一途をたどり、盗賊に身を落とし、徒党を組んで悪逆非道の限りを尽くす。
政治的混沌のさなか、性と暴力の氾濫するソドムの地獄絵は、並みの作家であれば、目を覆うばかりの残虐描写になるはずですが、この作家の天賦の才能は、むしろ目を奪う、絢爛豪華なスペクタクルを描き出していると思います。
現にヴァシリは「人間と人間がお互いを獣のように追い回し、躊躇いもなく撃ち殺し、蹴り付けても動かない死体に変える」光景を「美しい」と形容するのです。
「殺戮が? それも少しはある。それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行なわれることだ」。
美学が、テロリズムと矛盾しなくなる瞬間をとらえたこの一節は、戦争一般とともに、この作品が示す物語自体に対するメタ評釈とも、読みとることができるのではないかと思います。
しかし、ここで注意をしなければならないのは、ギリシャ神話にいうミノタウロスが、あくまで人身牛頭のキメラであって、人間自体でもケダモノ自体でもないことです。
徹底して人間的条件をはぎ取られも、なお残存する人間性とは何か、その問題をこそ、この作品は問いつめてやまないのです。
例えばそれは、砲弾で顔の大半をそぎ取られた兄のうちに、なおも残存する雄の本質であり「雄の神性の具現」であるのです。
そして、クライマックスに至ると、ヴァシリ本人は、自分が無数の略奪と殺人と強姦を重ねながらも「人間のような顔をして生きてきた」だけかもしれない、という思いを抱くのです。
かつて、ロシアの文豪ドストエフスキーの「悪霊」が、革命組織の内ゲバに、人間の必然的な悪を見抜きましたが、この作品は、革命後のカオスのうちで「何者でもないということは、何者にもなれるということだ」という悟りのもと、無限の仮面劇を展開する、ピカレスクロマンを紡ぎ出したのだと思います。
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