権力に対する皮肉を優れて絵画的な映像美で、全ては夢と幻想であるというモチーフで描いた黒澤明監督の力作「影武者」
1980年度第33回カンヌ国際映画祭で、この映画「影武者」は「オール・ザット・ジャズ」(ボブ・フォッシー監督)と共に、グランプリを獲得した作品です。
当時の海外での評価は異常に高く、本物(存在)と影(外見)という西洋哲学的な主題を、"東洋的な虚無感"と"古典的な様式美"、そして"凝結した躍動美"で映像化する事に成功したと絶賛されました。
また、"輝くばかりのオペラ"、"死の美学"、"映画的勇壮"とも評され、フランスのル・モンド紙は、「映画を見終わった後、全ては夢と幻想であるという作者の声が聞こえてくる」と最大限の賛辞を贈っています。 特に画家を志したという黒澤明監督の、壮麗で豪華な絵画を思わせる絵巻物のような、全編を通しての美しい映像には圧倒されます。
いずれにしても、当時の製作費として14億5,000万円、撮影日数292日、3時間に及ぶこの黒澤作品は、やはり映画史的にも価値のある力作だと思います。 そこには、「羅生門」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「用心棒」「椿三十郎」といった黒澤時代劇の"影"を見る事が出来るような気がします。
その"影"は重厚であって、勇壮な男の世界が、その根底にある悲しさや優しさというものを秘めて、迫力があり、しかも優れて造形的な映像美で、黒澤独自の入念な"完璧主義"をもって描かれていると思います。 しかし、この作品が同じ黒澤明監督の珠玉の名作「生きる」のように、素直に心に響いて来ないのは、脚本(黒澤明、井手雅人)にかなり無理があるからではないかと思います。
まず、処刑されかかっていた小悪党の泥棒(仲代達矢)が、一度会っただけの武田信玄に心服して、その亡き主人のための"影武者"として、何故、武田家のためにその身を捧げようと決意したのかという事が説得力に欠けるという面があります。 信玄の水葬の場面はうまく描かれていたと思いますが、だからといって、子悪党が滅私の"影武者"になる心理的動機とはならないような気がします。
また、信玄が、「われ死すとも三年は喪を秘し、領国の備えを固め、ゆめゆめ動くな」と遺言して死にますが、三年に限られた理由と、その後の武田家一門の政略、特に息子の勝頼の立場がどうもはっきりしません。 だから、"影武者"の役割もはっきりしないのだと思います。
また、"影武者"が落馬して本物ではないという事がバレて側室達が騒ぎ立てますが、"影武者"である事は近習達も知っているのだから、武田家のために側室達を黙らせられないはずがない----といった幾つかの点に筋立ての不自然さが目立ってしまいます。
脚本がもう少しうまく書けていれば、亡くなった"本物"に代わる"影"がもつ、虚実取り混ぜた人間的な面白さと、問題の深刻さをもっと掘り下げる事が出来たのではないかと惜しまれてなりません。
本来、"本物"あっての"影"ではありますが、子悪党の"影"は、場合によっては天下を獲る大悪党の"本物"になる事も出来るはずです。 "影"が、"本物"になり切って決断を下す場面に、この映画のもつ危険な本質がチラリと現れている気がしますが、映画はそこは深く掘り下げずにそのままに終わっています。
この"影武者"のような役は、ケレン味のない仲代達矢よりは、やはり当初のケレン味があって、あくどい個性の勝新太郎が演じた方が、やはり適役だったなという気がして、返す返すも勝新太郎が降板したのが残念でなりません。
演劇、そして映画そのものが考えてみれば、"本物"を真似る"影"であり、役者はいくら"本物"に近づけて演じたとしても、決して"本物"にはなりえない"影"なのだと思います。 しかし、演技によっては、本物以上の存在になる事も出来るのです。
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