帰らぬ青春への限りなき郷愁と人間的な自立を描いた「青春の門 自立篇」
映画「青春の門 自立篇」は、五木寛之原作の大河小説の映画化で、浦山桐郎監督がかつて「キューポラのある街」で描いた人間のみじめさを、とことん追求して掘り起こす繊細なタッチの映像手法が生かされて、戦後の朝鮮動乱後の当時の世相・社会状況が生々しく再現されています。
昭和29年、故郷の福岡県の筑豊を捨てた主人公の伊吹信介(田中健)は、早稲田大学に入学しますが、その時代は現在と違って生活に追われる貧しい学生たちが飢えと疲れで苛立っていました。 原作者の五木寛之や浦山桐郎監督が青春時代を過ごしたであろう、その当時のつらくて切ない心情が、彼等のいまや帰らぬ青春への郷愁として切々と描かれているような気がします。
浦山桐郎監督は、"金持ちの飼い犬として仕える屈辱のアルバイト"、"わずかな金にしかならない売血"、"青春期の性に身もだえして歩き回った新宿の赤線地帯のざわめき"、"ヤクザがうろつく薄気味悪い青線地帯の裏通り"、"世捨て人でインテリ風の娼婦や底抜けに明るい娼婦たちの物憂いアンニュイな日々"、"そのインテリ娼婦との触れ合い"、"独特の雰囲気のある喫茶店・風月堂の音楽とコーヒーの香りとそれと対照的な小便臭いドブ板沿いの屋台とそこでコップに溢れる梅割り焼酎"、"歌声喫茶でのロシア民謡の響き"--------。
このような当時の世相を主人公・伊吹信介の生き様を通して、切なくも哀惜の念に溢れ、情念のこもった点景として映像化していきます。 我々観る者が、まるでその時代にタイムスリップして、同時代を生きているかのような錯覚を覚えるほどの生々しい臨場感で迫ってきます。
そしてこの映画で描かれた当時の状況が、それまでのエネルギーの主力であった石炭から経済的に安価な石油の時代へのエネルギーの転換期であったという時代背景を忘れてはいけないと思います。 安価な石油の大量輸入に支えられた、その後の高度成長期直前の戦後の世相を、浦山桐郎監督は、自らが体験した時代を愛着と郷愁の念を込めた繊細なカメラワークで見事に描いていると思います。
出演者では織江を演じる大竹しのぶが、九州の女性の気の強さと優しさ、逞しさと明るさといった複雑でデリケートな役どころをけなげに、尚且つ情熱的に演じていて惚れ惚れするような見事な演技です。 織江は、信介にとって郷里の筑豊そのものの存在であるような気がします。
しかし信介の愛を求めて状況した織江は、大都会の冷酷な汚濁の中でもまれ、打ちひしがれていきます。 東京のような大都会には、かつて住んでいた筑豊の炭鉱住宅のような連帯感や、人間らしいロマンは見出しようがなく、こんな状況の中での男女のもつれは切なくも、やるせなくてたまりません。
また新宿二丁目のローザと呼ばれる娼婦のカオルに扮した、いしだあゆみの切なくも哀しい女性の姿を、心の襞に染み込むような魂を揺さぶる演技が忘れられません。 クラシック音楽に過去の教養を垣間見せる彼女の夢と、男の性の対象でしかない現実との大きな乖離が、"絶望的な倦怠となって不思議な魅力"を漂わせます。
そしてカオルは、同じように戦争の影を引きづりながら生きているボクシング・コーチの石井(高橋悦史)の気持ちと同化して心中未遂を起こしますが、この二人の関係に描かれる、どうしようもなく救いのない人間の生きる苦しみ、悲しみが心に重く響いてきます。
その後、信介は大学の仲間たちと新しい演劇運動を目指して北海道へ旅立って行きますが、「相手から絶対に目を離すな」とボクシングで石井コーチに徹底的に鍛えられ、"目をつぶらない人生"の生き方を教えられた信介が、これからの青春をどのように生き抜いていくのかという含みをもたせて映画は幕を閉じます。そして原作はこの後、「放浪篇」、「堕落篇」------と書き続けられていきます。
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