小谷野敦の「母子寮前」は、いつか来る日のための珠玉の一冊
「母子寮前」は、癌になった母が病名を宣告され、死ぬまでを、著者の小谷野敦を思わせる「私」の視点で描いた作品だ。
これは小説と言いながらも、ノンフィクションなのだろうと思った。著者の感情に呑み込まれ、泣いてしまうだろうなあ、と思っていた。
「私」は、母の死を目の前にして感情が揺さぶられ、動揺し、思い悩んでいるのだが、文章自体はそうでもなく、それらを感じさせないように抑制しているように感じた。
少し離れた地点から、我が身を見て、それを描いているような感覚があったから、冷静に読める。それでも、やはり母の死は悲しい。
「私」は、苦悩の毎日だ。医者に宣告された時の心情をこう描いている。「私の最大の味方である母をも失うのか」。本を書けば、ちゃんと読んでくれる。テレビやラジオに出演したら、視聴してくれる。鬱病を患った時も、看病に来てくれる。引っ越しの手伝いにも来てくれる。
子供にとって、母は一番の、そして、もしかしたら唯一の味方なのだ。その母が死ぬ。悲しくないわけがない。
治療を余儀なくされる母、それを支える「私」。こういう状況になればこそ、様々な問題が発生する。まずは医者との意思の疎通がうまくいかないこと。医者が患者に躊躇なく、病名を告げる姿に「私」は、違和感を覚えるのだ。しかし、医師は告げなかったことで、後で訴えられることを恐れて病名を告げる。
何でもマニュアル通りにする医者と、慮って欲しい患者。患者のことを思ってのマニュアルが、患者のためにならないということは、病院だけではなく、客商売をしているところでは、よく聞く話だ。
そして「鵺」と呼ばれる父の存在。妻は癌を患って看病が必要だというのに、罵声を浴びせる父。「くそあま」「死んじまえ」「お前となんか一緒に暮らしたくない」と。おまけに、見舞いにも来ない。
本当に「私」が描いた父そのままなら、滅茶苦茶な男だ。腹が立ってしまう。しかし、不思議に感じるのは、それでも母は自分が亡くなった後の父を案じている。どこまでいっても母は、強いのだ。
その後、母が亡くなり、四十九日の法要の際に放った「鵺」の最後の一言で、この暗い小説にも少しは救いがあるように思われた。
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