古代中国を舞台に精緻で華麗な文体を駆使して、躍動する人物像を描いた 「沙中の回廊」 - 沙中の回廊の感想

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沙中の回廊

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古代中国を舞台に精緻で華麗な文体を駆使して、躍動する人物像を描いた 「沙中の回廊」

4.54.5
文章力
5.0
ストーリー
4.5
キャラクター
4.5
設定
4.5
演出
5.0

それにしても、どうして宮城谷昌光の小説は、これほどまでに胸が躍るのか。読んでも読んでも、その思いはつきることがない。

「沙中の回廊」は、古代中国の春秋時代中期の稀にみる戦略家と言われた士会の生涯を描いた書で、その冒頭は、乱を起こした不満分子に晋の文公(重耳)が襲われる場面である。

宮中に駆けつける士会が、凄まじい棒の使い手と遭遇するシーンから幕が開く。文公の直臣、介推だ。士会を反乱分子と間違えて棒を振り回してきたものだが、誤解とわかって介推は、風のように去っていく。

この一か月後に、文公に対する批判の意味で介推は山にこもり、やがて伝説になるのだが、その直前に士会とすれ違うわけである。つまり、この作品は、晋の文公の生涯を描いた「重耳」、そして「介子推」と微妙に重なり合っている。

晋という国を描くという点では、ある意味で三部作といってもいいと思う。晋に帰国した重耳の後半生を士会の側から描いたのがこの「沙中の回廊」の前段で、文公の死後も歴代の王に仕えて士会の物語が始まっていく。

徳というものがない者は、覇者にはなれないとの当時の考え方が、まず面白い。卑怯なことをした者、天に背く者は必ず滅びるのである。あるいは、自分の息子が幼い頃から利発であることに士会が憂えるくだり。

現代なら、親として喜ぶところだが、「往々にして、早熟である者は、齢を重ねてゆくと精神の成長が止まり、凡庸にむかって傾落してしまう」と彼は考えるのだ。文公の御者で、のちに重臣になる荀林父が老いてから、ものごとの機微を察するようになるくだりで「人は死ぬまで成長するものだ」とあるから、利発なわが子を見て憂えるのは、士会の個人的な見解というよりも、当時の考え方を現わしているのだろうか。しかし「十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人」とも言うから、今に通じるものもあったりする。

とにかく、宮城谷昌光の小説を読んでいると、かつて司馬遼太郎の小説を読みふけっていた頃を思い出します。歴史を俯瞰で叙述する司馬遼太郎の手法には批判もあるけれど、その文学という概念からはみ出た、自由奔放な文体と、躍動する人物像に胸躍らせていた事実は消すことができない。特に、「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「峠」の三作を青春時代に読んだことは、幸せな体験だと思っている。

宮城谷昌光の場合は、描くのが古代中国であり、日本史を舞台にした司馬遼太郎とは異なる世界であるものの、しかし、それと同種の感銘と躍動感を私に与えてくれるのです。司馬遼太郎がそうであったように、こういう作家は20年に一人しか出現しないのではないかと思っています。

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