大人の愛
はじめに
この作品は「大人の愛」をテーマにしており、男女関係の縺れ、あるいは嫉妬などをうまく描いている。恋愛モノとはいっても豪華キャストによる熱演が見られるため非常に心に染みる一作となっている。
透サイドでは......
それではまずメインである詩史と透について見ていく。私はこの二人に関して、所謂一方通行の愛ではないことに大変驚いた。
というのも序盤、高嶺の花のような存在である詩史をひたすら追いかける透、といった設定で描かれているように感じたためでる。
例えば作中で引用されていた、「電車で乗り過ごし、隣の駅に行ってしまう」という表現を見てみよう。
これはなぜ詩史が電車に乗っているという設定なのか。つまり、詩史がなんとなく歩いていたら隣街に来てしまった、というような設定では何がだめなのか。
それは、詩史が「主体的に透を愛していない」ということを示唆させるためではないかと思うのである。つまり、自分で歩いて透の住む場所に行くわけではなく、ただ電車の流れに任せていた結果隣の駅に行ってしまうというのがポイントなのである。
要するに、詩史は本来、透という情熱に流されていただけの存在だったということを表したいのではないかと思うのである。
ところが、物語が進行するにつれて詩史も透に対して熱い想いを抱いていることが浮き彫りになっていく。
では、高嶺の花であったはずの詩史が、どうしてお互い想い合えるような関係にまでなったのか。
それは、お互いがお互いに対して劣等感を抱いていたからではないかと思う。確かに透の方は大人の女性であり、お金もあり地位もある詩史に劣等感を抱いている。しかし、詩史も、自身が「透くんのこれからの人生に嫉妬している」と話していたように、ある程度の年齢になって未来に選択肢がなくなってしまったことに負い目のようなものを感じているのである。
一方のみがもう一方に対して劣等感を感じている関係は、長くは続かないというのがセオリーだ。この二人に関しては、お互いの劣等感が釣り合い、その劣等感もまた愛するような関係にまで成り果てたのだ。そのため愛し続けることが出来たのだと思う。
違った視点から......
愛といえば、透の母親に関しても触れておく必要がある。普通、詩史と関係を持ってしまったことに気付いたら、息子である透を諫めるものであると思う。詩史を責めたところで息子自身が変わらないことには、また別の人で同じことを繰り返す可能性があるからだ。しかしこの母親は詩史を責めた。それだけ親の子に対する愛が根深く、詩史を敵のように感じてしまうほどてあると言える。
東京タワー
さて、ここで題名にもなっている「東京タワー」について考えてみる。
私はこの作品において東京タワーを「愛の質」と捉えた。
まず、序盤、東京タワーは遠くから、しかもガラス越しで映されている。これはお互いの愛がまだ成熟しきっていないことを表していると考える。
中盤から終盤にかけて東京タワーはより近くなり、遂に自殺未遂を図った透を追いかけるシーンで、ガラスを通していない東京タワーが目の前に映し出されている。これは、いよいよ詩史が透に畳み掛けるような熱を抱いており、剥き出しの愛に支配される詩史を描いているのだと思う。
剥き出しの愛といえば、詩史が透を別荘に招待した際はどうであろうか。詩史の愛が伺われるにも関わらず東京タワーは描かれていない。
確かに詩史が積極的に透と二人で居たいという思いがそこにはある。しかし、別荘に招待しているということは世間には隠匿しておきたいという気持ちも残っているのである。対して浅野を振り切って自殺未遂をする透を追いかけた時は、世間体や人の目などを気にする余裕もなく、無我夢中であったことが分かる。
愛のがはっきりと異なっているのである。
最後に、東京タワーはエッフェル塔に代わる。エッフェル塔には、幸運、ラッキーといった意味合いがあると言われているが、これはきっとその象徴として使われているのではないかと思う。
詩史を受け入れてくれたパリ人、詩史と透を引き合わせてくれた一枚の絵、そして最終的に結ばれるというこの一連の流れは全て幸運によってもたらされるものであると感じるからだ。
耕二サイドでは......
では次に耕二について考えてみる。
耕二は、透に影響されて年上の女に興味を持ち始めたという設定である。しかし耕二と透には大きな違いがある。というのも、透は詩史が好きで、その詩史がたまたま年上の女だった、というニュアンスである。一方耕二は、年上の人、特に既婚者と関係をもつことに背徳感を覚え、それを求めている節がある。同じ年上好きでも、その意味は全く異なっているといえる。
喜美子という女性
耕二の年上好きは、現在喜美子に向けられているが、その喜美子は酢豚に異様な印象を抱いていることが分かる。夫に酢豚を要求された夜は、決まって夫婦の営みを行うと喜美子は知っているからだ。だから酢豚と言われた日に耕二に会いたがり、また、酢豚を作るのに集中出来なくなってしまうのである。酢豚と言われた日の喜美子の様子は普段とひと味違い、目を引く。内なる葛藤と戦い、耕二に逃げて、それでも思い通りにならない耕二に八つ当たりし、自己嫌悪に陥り......と非常に目まぐるしく感情が移り、視聴者を巻き込み一緒になって物語が進んでいくような展開になっている。
吉田という女性
また、耕二は吉田の母親と関係を持ってしまい、その事に関して吉田は酷く怒っているという設定がある。怒っているのに耕二に近づく意味については、吉田が自分という存在を耕二の近くに置くことで過去の過ちを忘れさせないようにすることであろう。
しかし、私はここに強い違和感を覚えた。自分の母親と同級生が関係を持っている姿を見るというのは、激しい衝撃であるはずだ。ましてやそのころの吉田は恐らくまだ未成年であり、心は成熟しきっていない状態である。そのような中関係を持つ光景を見たら、普通は耕二を拒絶し、顔も見たくないはずである。ところが同じ家に住むにまで至るというのは、本来的に吉田は耕二にどこか惚れている部分があったのではないかと思うのである。
相対評価
最後に、本作全体を通し、耕二の話と透の話を比較しながら流れを見てみる。
私は序盤、耕二の話は「動」、透の話は「静」を感じていた。耕二の話は、例えば果実を投げたり駐車場で言い争ったりと、内なる激情が爆発しており、全身で愛している印象を持つ。一方の透は表に出さず、静な印象を受けるのである。
しかし、終盤、物語が大きく動く。耕二の話に関しては喜美子に車を破壊されるが、序盤から激情がよく現れていたため日常の延長のようであり、最後に派手にかました、といった清々しささえ感じる。
透の話では、終わりの方で浅野にプールに突き落とされる。突然の「動」なためとても際立ち、恐ろしさを感じるような構成となっている。似ている光景だがそこに違いを感じ、印象が全く異なっていたと思う。
なお、耕二の彼女として描かれる由利という存在だけは異色を放っている。全体的に動である耕二周辺で、彼女だけが静の雰囲気をまとっている。感情を表に出さないタイプなのだが、案の定恋愛において他の女性に劣っているような描きかたがなされている。つまり、耕二は激情を表に出す存在の方がスリルや背徳を感じることが出来、また印象に残りやすいタイプなのであろう。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)