自由律俳句という新しい分野の発見
五七五ではないけれど俳句
俳句の五七五というリズムにとらわれず、短いながらもリズミカルに感じる文章、いわば短い詩のような形を自由律俳句というらしい。このような言葉を初めて知った。そしてその自由律俳句と短編を組み合わせて出来た作品が、この「カキフライが無いなら来なかった」という作品だ。この作品は「火花」で芥川賞をとった又吉直樹と、せきしろが書いた作品だ。又吉直樹はともかく、このせきしろという人を私は全く知らなかった。この人は独特の文章で独特の世界観を作り上げている。自由律俳句でもその世界観を遺憾なく発揮しており、新しく興味がもてる作家(文筆業となっていたけれど一応)を見つけたことがとてもうれしく、それだけでもこの本を手に取った価値があった。
もともとどのような本なのかリサーチもせず、又吉が書いた小説だとばかり思って手に取った本だった。そして読んだことのない本を読むときの興奮とともにパラパラとページをめくると、目に飛び込んできたのはその自由律俳句で埋められたスカスカのページだった。一瞬「俳句かぁ…」とがっくりしてしまったことは否めないが、それでも読むとあっという間にその魅力にひきつけられて、読むのを止めることができなかったほどの力があった。
個人的にはどんな形であれ、俳句というものにはあまり興味がない。季語を含めてあり知的で美しいものだとは思うけれど、そこはもしかしたら年齢的なものがあるのかもしれない。年を取ると興味がでてくるのかもしれないが、とりあえず今は興味がない。しかしそれが自由律俳句となり又吉とせきしろが書いたものとなると、一気に読ませるものになる。どこかしらお笑い的な要素はあるものもあるけれど、ノスタルジーやかっこわるさなども十分感じさせ、そこから一気に想像が広がってしまう一文も少なくない。
読み手に想像力をかき立たせる魅力がこの自由律俳句なのだということなのかもしれない。
せきしろという人の印象
せきしろも又吉もとても引っ込み思案で恥ずかしがりで、人目をとても気にする人だ。それは共通しているように思えるけれど、又吉のそれとは少し違い、せきしろはその範囲がとても広いような気がする。これではかなり生きにくいだろうというような印象を受けた。だけどそのネガティブ感情をうまく文章として昇華することでその感情が成仏するのか、この文章を作るにはこの性格が必要不可欠なのだろうと思わせるなにかがあった。
又吉にはどこかしら明るいところというか救われるものが見え隠れするのに比べ、せきしろにはその明るさがない。常に暗くネガティブで重い。その暗さの中で日常のふとしたことを切り取るものだから、妙におかしみがこみあげたり妙に哀しくなったりする。
例えば「不機嫌なのが伝わってなくて驚いた」。自分では精一杯不機嫌顔をし、嫌なことをされたかなにかの反撃のためしていたのだと思う。なにも言わないけれどさっきのは嫌だったんだ、怒ってるんだという顔をし続けているにもかかわらず、相手が一切それに気づいていない悲しさ。分かる人にはきっとわかるはず。本当に表情だけで周囲に気を使わせる人に一回なってみたいとさえ思うこの気持ちは、せきしろにもきっとわかると思う。
また日常のありふれた場面でよくわかるのは「こんな古い歯医者で治療する人はいるのか居た」などは、わかりすぎて笑えたものだった。歯医者の恐ろしい印象をなくすために最近の歯医者は綺麗で明るい。逆に古いままの佇まいの歯医者は恐怖心が増すものだ。今時このような時代に逆行するような歯医者で治療する人などいるのかと思ったと同時に、治療を済ませた人がでてくるかしたのだろう。疑問の後にすぐつけられた「居た」という言葉の効果で、「居たんだ!」という驚きも感じられる。せきしろ自身きっと歯医者は嫌いなのだと思った。
又吉直樹の印象
お笑いコンビを組んでいるということもあり、文章全体にどことなくおかしみが漂っている。かっこ悪さや人目を気にするあまりとってしまう奇行などは、そのままコントになりそうな感じでもある。
又吉もまた暗さを持っている文章だけど、せきしろに比べるとまだそこに救いがあるようには思う。その分好みとしてはせきしろのほうに分があがってしまうのだけど、それでも目をひく文章は短編は多くあった。
たとえばタイトルにもなっている「カキフライが無いなら来なかった」という文。カキフライを食べたいがために恐らくは普段行かないところまで足を延ばし、赴いたのだろう。そしてカキフライを食べられることのうれしさを頭にいつも置いてそれまで行動していたに違いない。満を持していざ店をくぐったらなんとカキフライがないその衝撃と無念さが、文からあふれている。そして楽しみにしていたことを達成できなかった無念さからなんとなく周りの幸せそうなカップルにまでやつあたりしそうな、果てに不貞寝したいくらいの拗ねも感じられて、タイトルになるのもうなずける名文だ。そしてそこにはなんとなく平和さがある。
又吉の作品には全体的にそのような印象を感じられた。
自動販売機が一番明るい時
個人的にせきしろの短編で一番好きなのがこれだ(「このお通しの正体はなんだ」も捨てがたいが)。夜の散歩で見つけた自動販売機、夜の暗さにまぶしいくらいの自動販売機の明るさが目に浮かぶ。その自動販売機で買う、振って飲むタイプのみかんゼリージュースのちょうどよい振り数を試すのが日課となっていた日々に起こった出来事だ。このちょうどよい振り数を試すという視点が実に好みだ。おすすめは5回だが絶対5回では足りない。だからこそ自分好みの振り数を模索する楽しみとその暗さが、せきしろの本質に迫っているようにも思う。そういう日々を過ごしていたらある日その自動販売機では1缶だったみかんゼリージュースが3缶になっていた。せきしろが買っていたからこの商品が売れるという認識を自動販売機の補充する側が思ったわけではないだろうけれど(この過剰な自意識過剰感もせきしろと又吉に象徴的なものだ)、なんとなくメーカー側にもっと買ってと押し付けられたように感じて、みかんゼリージュースを2度と買わなくなった話だ。その感覚はとてもよくわかる。少し違うけれど、よくいくネットカフェの店員に街中で挨拶されたときの居たたまれなさと似ているようにも思う。
私はそのネットカフェに二度といかなくなったけれど、せきしろはそれ以上でみかんゼリージュース自体にも魅力を感じなくなっている感じがある。
この過敏というか心の狭さというか、そういった感じがせきしろの文章の魅力だ。
ファーストキスが太宰の命日
又吉は太宰治が好きらしい。もともと好きだったけれど、タイトル通り自分の記念日が太宰の命日だったことでなんとなくいわくを感じ、その住んでいたところを探したところ、なんと今自分が住んでいたアパートの住所だった。太宰の住居跡にそのアパートがたったらしい。これは結構びっくりしたところだ。探している場所が自分の住んでいるところだったなんて、又吉でなくとも因縁を疑ってしまうところだ。でもそこから自分が太宰となんらかの関わりを持った人間の生まれ変わりかも…と考えてしまうところが又吉らしい。そしてそれは妄想だけに留まらず、占い師に見てもらうだなんてなんともらしくない無駄な行動力があるのも又吉らしい。見てもらった結果、自分の前世はバッタだといわれたところなどはまるでコントのようで面白かったが、そこからの4行くらいはいささか蛇足感が感じられるように思った。
私は前世がアリだといわれたことがある。又吉がバッタだといわれたのも、あるかもなと妙に納得した話だった。
私にとって読んだことのないタイプの本
小説というには軽すぎるが、俳句ほど重々しくもなく、お笑いのように派手に笑えるわけでもなく、でもなぜかずっと読んでしまうこのようなタイプの作品は今まで読んだことがなかった。新しいタイプの本を読むことでせきしろという人物も知ることができたし、とても収穫があった。
新しい分野を開拓しては失敗することがよくあったけれど、久々の当たりに気をよくしている。
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