嬉しくても涙が出て切なくても涙が出る
息苦しい世界で生きる薫と千太郎
薫の父親は転勤族で、薫はずっと転校を繰り返してきた。うまく立ち回れたのは小学校5年生くらいまでで、それからは、極度のストレスがかかると吐いてしまう体質になってしまった。家にも、学校にも、どこにも居場所なんてない。早く父さんの仕事が終わって帰ってきてくれればいい。それだけを楽しみに、叔母たちの陰口にも、秀才が故の期待にも耳をふさぎ、ただ医者になるために、彼は学校へ通うのだった。
そんな薫の狭い世界がぶっ壊されたのが、千太郎との出会い。この出会い方がもうBLなんじゃないの?というきわどいところだったよね。でも、千太郎が薫を天使だと見間違えたことが、後々にあーやっぱり薫は千太郎の天使だったんだなーって気づかされて、千太郎にとってのかけがえのない人であることがヒシヒシと伝わる。そして、それは薫にとっての千太郎も同じことで、彼が涙を流すポイントでは、いつも同じように涙が出てしまった。
千太郎もまた、自分は家に居場所なんてないんだと思ってずっと生きてきた、アメリカ軍人と日本人の母のハーフ。彼が強くなれたのは、ジャズのおかげで、教会の神父様の支えがあってこそ。薫がピアノで、千太郎がドラム。セッションすれば、辛いことも苦しいことも音に流れて溶けていく。決して消えてしまうわけじゃないけれど、すっと心が軽くなる。ソフトなタッチの漫画だけれど、描いていること、彼らの心が抱えるもの、すれ違いはどれもディープで、正直だ。それがこの漫画の魅力だろう。
一方通行の恋の連鎖
薫は転校してきた自分に分け隔てなく優しくしてくれる律子に恋をした。でも律子は幼なじみの千太郎に恋をしていて、千太郎は百合香という美人なお嬢様に一目惚れする。さらには、百合香は薫や千太郎とジャズ仲間の淳一に一目惚れしてしまい…どこまでも一方通行なのであった。
ぐっときたポイントはたくさんあるが、中でも一番は、千太郎が百合香に恋したのがわかって、薫が一生懸命うまくいくようにとセッティングしていくのだけれど、その中で、薫は律子の気持ちを考えていなかったことに気づく…というシーン。本当は気づいていたはずだった。誰より、千太郎のことを心配して、支えてくれているのが律子であることを。彼女がどのように千太郎を見ているのかも。なのに、千太郎の恋路を応援して、自分が律子と近づければいいと自分のことだけ考えていたことに気づいてしまったとき、彼は友情と恋する気持ちの間で揺れ動くのだ。
薫はきちんと律子に告白もして、返事はすぐにはいらないからと時間をおいたことは、自分の逃げでもあるだろうけれど、時代だなーって気もする。奥ゆかしいというか、日本の昔の恋の進め方というか…焦った薫が思わず律子にキスしてしまったところは、薫も意外と行動派だなーと思わせてくれたし、きゅんとしてしまうポイント。実は図体のデカい千太郎のほうがずっとピュアで、傷つきやすく、薫は見た目以上に努力家で、一生懸命なところがおもしろい。千太郎と距離ができてしまっても、彼らはジャズで繋がって、また横に並んで歩き始める。こんな友情がうらやましいし、今の時代にはあまりないなーと感じさせる。男はケンカしようとも仲直りできる、っていうイメージのちょうどモデルになる関係性だ。
1人の幸せがみんなの幸せには繋がらない
この漫画のうまいところというか、心苦しいポイントは、みんなが一方通行の恋をしている中で、全部がうまくはいかないのだというところ。そして、日々の生活の中で、恋だけじゃなくていろいろなしがらみがあって、生きているのだと感じさせるところだ。
薫は律子に告白して失恋。それでも千太郎とは友達を続けることができた。同じように、千太郎も百合香とは付き合えず、百合香は淳一と添い遂げることになった。彼らは、互いに恋の楽しさも、辛さも、全部味わって、支えあう最高の友達だった。そして、薫にも運がめぐってきたのか、律子が薫の方を向いてくれるようになり、両想いで恋人になることができたのだった。そこから千太郎のバイク事故・妹の幸子の重体…たとえ幸子が奇跡的な回復をしてもなくても、千太郎は出ていってしまったと思う。千太郎を失った薫はもとの暗い性格に逆戻り。律子のことだって、好きだったのに、千太郎なしには繋がれなかったことを思うと、彼は律子にも、千太郎にも、恋のような、家族愛のような、温かなものをもらっていたんだなと気づく。3人でいるから、幸せだったのであって、一人でも欠けてしまえば何もかもが足りない気がして…それがわかってしまう律子もまた、薫が好きなのに苦しんで。あーこのまま終わってしまうの?とハラハラしまくった。
こういう複雑な人間模様を見ていると、今って割と自分だけの気持ちを優先させる時代になったんだなーってことに気づくし、それがいいとか悪いとかじゃなくて、時代が移ろったことを感じるね。変わったんだなと。
傷つけたくないのに傷つけてしまう
薫は、千太郎のことも、律子のことも、本当に大事にしてきた。そりゃーケンカすることも、自ら距離を置いてしまうことだってあったけれど、最後にはちゃんと戻ってきて、話をして、より深いところで理解しあう関係になれる。
深くなればなるほど、傷つけたくはなくても傷つけてしまうことがある。相手の事を想うから言う言葉もあれば、これだけは自分の大事にしている考え方だから示さなければならないと思う言葉もある。傷つけたいわけじゃないのに、傷ついてしまうことがあるんだよね。それすらも認め合うことが、恋人同士であろうと、友だち同士であろうと大事なこと。それに気づくには、こうやってぶつかり合うことを避けていてはいけないのだろう。
百合香と淳一の関係もまた心打たれたね…。1960年代の若者事情を反映すると、やはり学生運動は避けては通れない出来事。それに翻弄され、大学を辞めてしまった淳一。それでも愛すると決めた百合香。突き放す淳一…最後には、淳一が百合香を引き留めて…駆け落ち同然。これもまた1つの愛のカタチだし、薫たちとの対比だ。薫たちは関係性を大事に想うからこそ動けないことがあって、百合香は何もかもを捨ててでも手に入れたいと行動できる人だった。仲が良くたって、そばにいたって、恋の仕方は全然違うんだよね。
ジャズで繋がり続いていく
彼らが苦しいとき、悩んだとき、いつもジャズが助けてくれる。音楽って…いいよね。なんかどうでもよくなるというか、改めて冷静に考えさせてくれるんだよね、音楽というのは。それは昔だろうとも、今どきだろうとも大きくは変わっていなくて、そうやって前向いて歩いていくんだなーってしみじみと考える。
最終的に、薫が律子と結婚できたのはすっごく嬉しいね。そして、医者になった薫が千太郎のそばで医者をすることも…嬉しくてしょうがなかった。あのまま別れて別々の道を生きていく可能性も考えていたし、ずっとそばにいて、ずっと一緒に楽しく生きていける相手を持つって、もはや恋というか愛というか。律子みたいな人じゃなかったら、千太郎にやきもち焼いてしまうと思う。千太郎と薫の関係は、一歩間違ったらBLなみに近いからね。番外編で律子のお腹の中の子どもに話しかける千太郎の言葉は、すげーあったかくて、自分が感じてきた悲しみのぶんだけあたたかく赤ちゃんを迎えてくれるんだろうなーって思えるから、嬉しすぎて泣いた。何回泣かせるのってくらい、薫、千太郎、律子は、最高の友だちだと思える。
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