人間の孤独やエゴイズム、憎しみや不安や絶望というものをテーマに厳しく人間の内面を凝視する、映画作家イングマル・ベルイマンの秀作 「秋のソナタ」
才能のある、性格も勝気な女性が、平凡な家庭生活におさまっていられなくて、夫と子供たちを捨てて家を出て行ってしまう。夫を嫌ったわけでもなければ、子育てにうんざりしたわけでもない。ただ、どうしても家庭におさまりきれなかっただけなのだ。
そんな妻=母に見捨てられた夫と子供たちは、彼女の才能や女性としての魅力を誇りとして賛美していただけに、彼女を憎むよりもむしろ、彼女の家族であることに値しないかのように扱われてしまったことの劣等感に苛まれて、ひっそりと生きてきたのだ。
夫は再婚もせず、自分を捨てた妻を想いながら、わびしく死んでいった。長女は、そんな父を愛おしく思えば、なおのこと、母の不人情さを憎むよりも、母の愛に恵まれなかった自分を悲しく思うばかりである。そして、長女は心優しい牧師と結婚し、寝たきりの身体障害者で言語障害もある妹を引き取って、一緒に暮らしている。彼女には子供もあったが、死んでしまった。
長女の夫の牧師は、そんな、母の愛に恵まれず、悲しい思い出の多い妻を心から愛し、いたわっているが、知的で自己に厳しく、不幸は全て自分の内側に囲い込んで静かに微笑していて、夫に甘えるというようなことの微塵もない彼女の心の中には、もう一歩、入り込めないもどかしさを感じているようである。夫はただ、ちょっとはらはらしながら、彼女を見守っているばかりらしい。
一方、家庭を捨てて広い世界に翔んでいった母は、そこで、ピアニストとして才能を顕し、演奏旅行で世界各地を歩き、たぶん多くの才能で有名な男性たちとも交わったのであろう。しかし今、寄る年波で、長年支えになった愛人とも死別し、ちょっと心が落ち込んでいる。仕事も落ち目なのかもしれない。
ある日、思い立って長女に手紙を書く。長女は喜んで母を我が家に招きたいと返事を書く。そこで、母が、七年ぶりに娘に会いにやってくる。イングマル・ベルイマン監督の「秋のソナタ」は、以上のような過去を前提として、この母親が長女夫婦の家へ訪ねてくるところから始まります。厳密に言えば、この母娘の物語の紹介者のようなかたちで、まず、長女の夫が現われて妻の性格や自分とのロマンスを印象的なエピソードを交えて説明するところから始まり、続いて、妻が母へ、是非しばらく一緒に暮らしましょうという手紙を書いて夫に見せるという運びになり、次いで母親が訪ねてくる場面になります。
北欧のどこか、湖に面した静かな美しい風景と、贅沢ではないが、申し分なく好ましいたたずまいの家屋。リヴ・ウルマンの演じるつつましく聡明そうな長女エヴァと、見るからに好人物であるが決して愚かではないその夫のビクトール(ハールヴァル・ビョルク)。そこにやってくる母親シャルロッテ(イングリッド・バーグマン)。
ベルイマン監督の映画には難解なものが多かったが、この作品は、以前撮った「ある結婚の風景」と同じように、難解なところはひとつもない。それどころか、この出だしなど、まるでチェーホフかストリンドベリーの芝居の幕開きを思わせ、さあこれから、少し深刻だけれども十分に趣味のよいドラマで愉しんでいただきます、と口上を述べているような趣さえあるのです。
ある人物が訪ねてくることによって、それまでそこに凍結されていた人間関係の葛藤が再び動き出し、過去に積み重ねられていた諸々の愛憎が表に出て、収拾のつかないような混乱にまでたちいるが、最後にはまた、登場人物たちのささやかな力ではどうにもならないような大きな矛盾が明らかになるのだ。そこで登場人物は、最初よりは少しは深まった認識で、静かに破局に耐えなければならず、我々観る者は、そのわびしさ、せつなさを主人公と共有して、知的な涙の浄化作用に身を委ねるのです。
チェーホフやストリンドベリーを頂点とする近代劇には、こういう構成の作品が多いが、ベルイマン監督はこの映画で、明らかにその定型どおりに愉しませることをくっきりと予告し、見事に愉しませ、きりりと定型どおりに終わらせるのです。だが、では定型なら陳腐かと言えば、全然そうではなく、近代劇にはあり得なかったような、たんげいすべからざる新しい要素がそこにあるのです。それは、主として母親のキャラクターに関わるものなのです。
イプセンの「人形の家」であまりにも有名なように、家庭を捨てて翔んでゆく女性というのは、近代劇が生み出したヒロインの最たるものだと思う。家を出たノラが、その後どうなったかという議論は、魯迅の原作の中国映画「傷逝」にもあった。
かつては、ノラは家を出たことをきっと後悔しただろう、という話になることが多かったが、女性の社会進出の著しい昨今では、家を出て良かったというノラが増えているに違いない。シャルロッテは、成功したノラとして、ほとんど自分が悪かったとは思わずに娘のところへ帰ってくる。捨てた娘に会うのは少しバツが悪いが、娘は自分を誇りにしているはずだ、ぐらいの気持ちらしい。
シャルロッテは、エヴァから次女のヘレナ(レーナ・ニーマン)が同居していると聞いて嫌な顔をする。夫と長女を捨てたことについてはなんとも思っていないが、身障者の次女を見捨て、かえりみなかったことは、さすがに母親として良心が咎めるからだろう。しかし今さら引き返すわけいもいかないので、ヘレナの部屋に行って元気づけるようなことを言うのだった。しらじらしい、うわべだけの言葉である。
彼女は、ノラのように俗物の夫の鎖を勇気をもって断ち切ったというより、芯からのあっけらかんとしたエゴイストなのだ。しかし、イングリッド・バーグマンは、これを思うがままに生きてきた魅力的な女として演じているし、ベルイマン監督も決してこの母を非難してはいないのだ。
多分、このシャルロッテは、これを演じるバーグマン自身をモデルとして描いたもののような気がします。スウェーデン出身で、幸福な家庭の妻であり母であった彼女が、ハリウッドで大成した後、イタリアの大監督ロベルト・ロッセリーニに惚れて、家庭を捨てたことはあまりにも有名な話です。
エヴァは母を喜んで迎えたつもりなのだが、会えばもう、かつて捨てられたことの恨みしか出てこない。それどころか、エゴイストの母親によって少女時代にどんなに劣等感ばかり募らされたかを言いたてるのです。シャルロッテはあやまって、これからは仲良くなってゆこうと下手に出るが、エヴァの心のわだかまりの深さに辟易すると、さっさとまた家を出て行ってしまうのだ。
このエヴァの、自他ともに神経的にまいってしまうところまで鋭利な言動で追い込んでゆく過程は、これまでもベルイマン作品でもう何度見せられたか分からぬお得意のところで、リヴ・ウルマンの演技も堂に入っている。リヴ・ウルマンの剃刀の刃のような切れ味の演技に比べると、さすがの大女優バーグマンも押され気味で、たじたじしながら臭い大芝居で持ちこたえているように見える。しかし、この二つの役は明らかにバーグマンのほうが儲け役であると思う。
母に去られたエヴァが、せっかく老後を穏やかに過ごそうとする母の心を傷つけてしまったことで、またくよくよ悩んでいるのに対し、再び家を出たシャルロッテのほうは、汽車の中で新しい愛人の老指揮者かなにかの手を握って嬉々としている。
あくまでも良心的で常に悩まずにはいられない娘と、身障者の次女を家に残してきたことすら、もう忘れてしまったかのような母とのカットバック。この勝負は明らかである。母は強者であり、娘は弱者である。娘のほうが道徳的には正しいが、しかし彼女は、この無邪気な強者である母親を凌ぐことは決してできないのだ。
母娘が一緒にピアノでショパンを弾く場面で、母がショパンの"男性的な力強さ"について娘に語り、娘がそう教えられられてしょんぼりするあたりが素晴らしく象徴的だが、ただ良心的で内省的であるだけの人間は、悪気のない実行力のある人間にはとても勝てないのである。道徳より人間的魅力に軍配が上がるのだ。
ベルイマン監督はこれまで、エヴァ的な人間の苦悩だけを一途に追ってきたが、「ある結婚の風景」のラストで別れた元夫婦による姦通をユーモラスに肯定してみせたあたりから、苦悩を忘れても許される人間というものを、ちらりと見せ、それに微笑を与えている。このエヴァとシャルロッテの表現で、それはいっそう明らかになったと思う。バーグマンが儲け役であり、臭い芝居を得々とやっても、それがかえって可愛く見える所以である。
しみじみと優しいが、しかし十二分に辛辣な映画であり、演出も演技もカメラも完璧だ。
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