不倫と愛
直接的で、冷めたエロティック
「今日は日曜日。雨だったせいもあり、わたしは日がな一日、部屋に引きこもったままビデオを観ていた。」
この、誰もが想像できるような情景から、物語は始まる。
日曜日の雨は、なんとなくどんよりした気分で、動き出すのが億劫。
つい、部屋にこもってだらけてしまう女性。
主人公清水マヤは、小さな映画会社の仕事で、パンフレット制作を担当する。そのための作品鑑賞の中で、出演女優について考察する場面。その女優を表すための言葉選びが秀逸だった。
色気があるだの、男にモテるだの、愛人的だの、結局どこか主観的な印象では語らない。
「服を着た、歩く女性器そのもの」
「男を勃起させる女優」
これほど強烈かつ印象的で、これほど客観的な女性の形容を、私は知らない。
最初から10ページほどが、この調子である。いわゆるエロティックな表現(しかもかなり直接的)にはなるのだろうが、アダルト雑誌や動画などの作られた情愛や激しさとは異なる、どこか冷めた感じのする物語の始まりであった。
世の中の女性を眺めてみると、ごく一部ではあるが、いるのだ。
特別端正な顔立ちの美人、ではない。
頭身バランスや手足の長さが特徴、でもない。
過度な露出をしているのでも、ボディラインを強調しているのでも、ない。
それなのになぜか、性的な魅力を持て余す女性が。
小池真理子のこの表現は、非常に印象的だった。
そしてこれが、物語全体に通じる表現の特徴だと思う。
直接的で、冷めている。しかし、エロティック。
愛だの恋だのを語る際は、情熱的で、感情的で、主観的なものになりがちだ。1対1で愛を語るのではなく、不特定多数が対象になる小説の世界でも、読み手は読み手の経験に基づき、それぞれの愛を、それぞれの恋を思い浮かべることができる。きわめて主観的に。そこに小池真理子は、淡々と、直接的に、まるでロボットの実況中継のように、冷静に「恋愛」を綴っているように思える。そこに、激しい情熱は感じられない。
「理解できない」ことを認め、受け入れるということ
マヤは、野呂貴明と出会う。そして、不倫関係になる。
マヤという女が、とても魅力的な女か、というとそうでもない気がする。
野呂という男は、とても魅力的な男か、というとそうでもない気がする。
しかし2人は惹かれ合うのである。そして、関係を持つ。
野呂は、既婚者である。
聡明で美しい妻・慶子と、2人の子ども。野呂の父親も医者で、自身が医者をやめた後「ユリイカ」やレストランなどを経営するところからも、経済的には豊かな部類だろう。不倫と聞くと、ポンと頭に浮かぶ典型的な男だ。
しかし野呂は、「女」(たいてい容姿の整った人)を連れて歩く自分(=「男」)に酔いしれるために不倫しているのではない。
妻との関係の悪化など、諸々のはけ口としてマヤと不倫しているのでもない。
では、なぜ?
マヤとの関係を清算しないまま、江波千晶という年上の女性に惹かれた野呂は、のちに妻子を置いて、彼女と外国へ旅立ってしまう。
では、なぜ?
その答えは、見つからない。
なぜなら、人間の考えは、自分の経験に基づくものが多いからであろう。経験(=現実)を創作(=空想)に当てはめるには限界がある。さて、どうしたものか。まったくわからない。でも、読み進めたい。この気持ちが薄まることなく、私は読了したのである。わからない。
「嘘と知りつつ溺れる・・・・・・確かに馬鹿げたことには違いないが、それこそが恋が人に与える魔力なのかもしれない。」
マヤのこの言葉に、不倫というものを経験した者の、言い訳めいた「恋」への美化を感じる。
熱い想いと衝動、はっきりさせないままでも続けられてしまう男女の関係、止めるきっかけを看過するズルさ。
「不倫」は「不倫」だ。「恋愛」ではない。
昔も、今も、そしてこれからも存在し続ける「不倫」
巷では今日も、スキャンダル報道が絶えない。
社会的地位や権威のある人も、芸能人も、話題のあの人も。
友人も、知人も、友人の友人も。
マヤは言う。
「愛はうつろいやすく冷めやすいものと相場が決まっているが、自分の情熱をごまかさずに生きたことをわたしは誇りに思う。」
「たとえすべての夢や希望を失うことになったとしても、わたしは愛することをやめはしないだろう。」
反省はしても後悔はしない、そのような人間であれば、不倫もまた一つの経験として、人生に落とし込めるのかもしれない。
と、思いかけて、首を振る。
不倫は、配偶者がいるから「不倫」なのだ。
倫理的でないから「不倫」なのだ。
たいてい、本人たち以外に、近いところで傷つく人がいる。
その人の存在を意識し、その人の思いやることができない奴。肉体的、精神的快楽ばかり求めるお子ちゃま。想像力の欠如。現実認識の甘さ・・・。
しかし、この作品で小池真理子は、「愛する」ことに焦点をあてている。
不倫は決して愛ではないと信じている私は、目を背けていた「愛する」ということの新たな一面を知る。
マヤの生き方に対する不安定さ、野呂の社会的な部分での「弱さ」。それぞれが抱える「弱さ」が共鳴し合って惹かれ合う、だからこそ、倫理や道徳に反する2人の「愛し合う」行為が、許せなくても、理解できなくても、どこか儚く美しく感じてしまうのか、と本を閉じるのであった。
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