アメリカ南部を舞台にアメリカ最大の恥部である人種問題を、社会派ミステリー・タッチで描いた秀作 「ミシシッピー・バーニング」
「ミッドナイト・エクスプレス」「バーディ」「エンゼル・ハート」と、発表する度に、常に我々映画ファンにセンセーショナルな問題を提供してきたアラン・パーカー監督が、アメリカ南部を舞台にして、人種差別を扱い、アメリカ最大の恥部ともいえるこの問題を、社会派ミステリー・タッチで描いた「ミシシッピー・バーニング」は秀作だと思う。
黒人に対する人種差別の感情が激しいミシシッピー州のジュサップという町で、無気力になった黒人たちを啓蒙しようと、この町に乗り込んだ三人の公民権運動家が、突然、消息を絶った。1964年6月のことで、当時、アメリカ全土には黒人にも公民権を与えよと主張する公民権運動------、いわゆる、フリーダム・サマー(自由の夏)の嵐が吹き荒れていたのです。公民権運動家の失踪事件を重視したFBIは、二人の捜査官を現地に派遣します。
一人の捜査官は、ハーバード大学出身。法の正義と法の力を、観念的に信じ切っているエリートで、このアラン捜査官を「プラトーン」「最後の誘惑」のウィレム・デフォーが演じています。そして、もう一人のルパート捜査官を、「フレンチ・コネクション」「スケアクロウ」の名優ジーン・ハックマンが演じています。こちらは、南部出身で、元郡保安官をしていた、叩き上げの捜査官で、実地の捜査方法ばかりでなく、この地方の人々の扱い方を心得ているのです。
つまり、能弁なエリート捜査官に対し、こちらは寡黙で、しぶとくタフなのです。このように対照的な性格の二人の捜査官は、失踪した三人の公民権運動家の行方を求めて、聞き込みを開始します。この聞き込みは、しかし、すぐに壁にぶつかってしまいます。二人を迎えた町の人々は、恐ろしく非協力的なだけでなく、捜査に対して、敵意さえ抱いているかのようなのです。
その中で、ごく稀に、協力的な人々は、リンチにあい、家を焼かれたりするのです。町を、一種の"底知れぬ闇"が覆い、その闇の奥にもうひとつの深く、濃い闇が存在するかのようで、ひどく不気味なのです。アラン・パーカー監督による、このあたりの南部の町の不気味な雰囲気の描写の演出は、実に見事で、スリリングでサスペンス感に満ちあふれていると思う。
この町で、一体、なにが起こったのか? ------。
捜査が一向にはかどらないことに苛立ったアラン捜査官は、数十人の捜査官の応援を要請し、その大捜査の結果、町外れの沼から一台の車が発見されるのです。そして、この車は、失踪した三人の公民権運動家たちが乗っていた車に間違いなかった------。
この車の発見を機に、捜査はさらにエスカレートし、百人の捜査員が動員され、徹底的な捜査が行なわれます。だが、捜査は空振りに終わり、遺体はおろか、なんの手がかりもつかめませんでした。このように、FBIの捜査が、次第に大規模になっていくのにしたがって、町の人々は事件に関して石のように沈黙します。捜査に対して完全に非協力となり、事件には、いっさい、口を閉ざすのです。
こうした正攻法の捜査方法とは対照的に、叩き上げのルパート捜査官は、丹念な聞き込みと、長年の捜査の勘から、町の保安官助手が事件に関わっていると確信し、この保安官助手の妻(フランシス・マクドーマンド)に、執拗につきまとうのです。彼女から何かを聞き出し、解決の糸口を見出そうというのです。
このように、二人の性格の異なる捜査官を設定して、オーソドックスな捜査方法をとる捜査官が、事件の核心に迫れるのか。それとも、個性的でユニークな捜査官の捜査方法の方が有効なのかどうか。こういったことは、推理小説や推理映画で、しばしば取り上げられるテーマのひとつですが、この映画では、叩き上げの個性派の捜査官が、じりじりと事件の核心に迫っていくのです。そして、捜査が核心に迫るにつれて、捜査を妨害しようとする影の力も、どんどんエスカレートしていきます。焼き討ちからリンチによる殺人まで、事件の口封じの方法は手段を選ばなくなってきて、狂暴化する一方なのです。
この映画の最大の長所は、黒人蔑視、不当な人種差別の背景には、"貧しさ"があると、はっきり指摘していることだと思う。人種差別の根っこには、白人の貧しい層が確実に存在し、彼らが貧しさから脱出する道も方法も知らないがゆえに、その不平や不満のはけ口を、黒人を差別することに見出していると、はっきりと示しているのです。
こうした鋭い視点が、「ミシシッピー・バーニング」を単なる捜査官を主人公にしたサスペンス・ミステリー映画の枠を越えた、社会派映画の秀作にしている最大のポイントだろうと思う。
この映画に登場するジーン・ハックマンの捜査官は、ある意味、暴力の権化のようなところがあり、犯人を割り出し、犯人を追いつめるためには、囮捜査はおろか、もっと汚く、卑怯な手段も辞さないところがあります。それだけ犯人に対する怒りや憎悪が激しいためだろうが、客観的に考えて、捜査の範囲を逸脱した、ジーン・ハックマンの捜査官のやり方は、恐らく、アメリカでも物議を醸したことだろうと思う。
この映画は、恐らく、実際に起こった事件を下敷きにしているのだろうが、アメリカ社会に巣くった人種差別の根深さ、深刻さ、犯人割り出しのためにFBIの捜査官がとった凄まじい手段や方法までを含めて、どこまでが事実でどこまでがフィクションなのかをめぐって、論争が起こっても不思議ではないと思う。
社会派ミステリー映画の角度から見た場合、ジーン・ハックマンのとった方法は、あまりにもアン・フェアだといえる。地味な捜査をきちんとした物証によって、論理的に合理的に犯人を追いつめていくことが、捜査の常道だろう。この捜査の常道をとらずに、犯人を追いつめるためには、捜査側がどんな手段をとってもいいということになると、いきつくところは、捜査側の暴力是認、ということになって、事件は捜査側と犯人側による報復合戦、暴力対暴力の果てしない悪循環ということになってしまうのではないか。すると、そこには科学的な推理の働く余地がなくなってしまうのです。
捜査側と犯人側。捜査側の方が、犯人より残酷で、犯罪者であるかのような印象の映画が、特にアメリカ映画には多いのだが、それだけ現代社会が抱える暴力の問題は深刻なのかも知れない。「ミシシッピー・バーニング」で描かれた人種差別問題は、容易に犯罪に結びつくだけに、捜査の方法も、途方もない困難さがつきまとうのだろうが、そうであればあるほど、作り手の側に自制と冷静さが求められると思う。
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