安易な感動を拾いに行きすぎ! 一年戦争秘録のドライなスタイルはどこに消えた?
楽しみにしていたIGLOO第二期、ふたを開けてみるとあれれ?
MS IGLOO第一期の一年戦争秘録は戦争のひとコマをドライかつリアルに切り取って見せる手法がとてもよくできていた。
技術屋の目線から戦場を見て、その不条理、悲哀、良いものへのこだわりを持つ人間達の美しさなど、いろいろな要素が丁寧に書き込まれていた。
何と言っても従来のガンダムとは違い、直接戦闘に参加しない人間の視点であることや特定のヒロイックな人物がクローズアップされ過ぎない事、などが新しかった。
しかし、今回の第二期は、どうしたんだ? と言いたくなるような方向転換をしている。
主人公であるマイ中尉とキャディラック特務大尉が直接話に絡んできて、キャラ色が明確に濃くなった。
更に誰もが知っている一年戦争のクライマックスに主人公たちが組み込まれ、展開の予想がつくものになってしまった。
それによる功罪を、以下で細かく分析していこう。
キャラ色が濃くなった利点
マイ中尉の直接戦闘参加、キャディラック特務大尉の弟が登場して死に至ること、など明らかに物語が彼らを中心に回るようになった。
これによって物語として、見やすく、わかりやすく、カタルシスを得やすくなったとは思う。
感動場面的な部分だけ拾い集めてみれば色々ある。
・技術畑の人間が、実際に戦場に立って見て感じる恐怖や戦慄、しかしそれを乗り越えて戦果を上げることで、視聴者と達成感を共有できる。
・肉親が死に至る詳細をモニターで見てしまうヒロインの悲劇を描き、戦争のやるせなさをわかりやすく示した。
彼女は一時的に我を忘れて悲しみに沈むが、最終局面で戦線復帰して主人公を救出、悲しみを乗り越えて行動するというカタルシスを演出した。
・無謀で好戦的に過ぎる上官カスペン大佐ではあったが、最終的には若者たちの盾になってジークジオンを叫びながら爆死。
これは若者たちが未来を創るというメッセージだろう。老兵は敗戦の責任を取って死ぬ、という構図もすっきりしたあと味を残す。
どれを取っても感動を誘うシーンのようではある。
しかし、である。
言いたいことが山ほどあるので、一つ一つ整理していこう。
キャラ色が強くなった弊害
何よりも言いたいのは、このIGLOOシリーズ第一期:一年戦争秘録の良さをほとんど捨ててしまった、ということだ。
第一期は、従来のガンダムと一歩距離を置いた価値ある作品だったと私は高く評価している。
しかし、本作は単なるガンダムサーガのひとコマでしかなくなった。
マイもキャディラックも、直接戦局に絡む必要もなかったように思う。
本シリーズは彼らが観察者の立場から各局面を冷静に見ることに新しさがあったのだ。
その新しさを捨てて、まして、家族愛とかを直接的に持ち込むのは興ざめでしかなかった。
無謀で無益な戦闘を煽る上官とそれに巻き込まれる、補充されるのは少年兵ばかり、という構図も、過去の戦争映画で見飽きたものでしかない。
キャディラックも特務大尉などという大層な階級にありながら(1話で中佐と同等と言っている)艦橋で泣き崩れて自暴自棄に陥る始末。
一期の第一話で見せたようなドライな戦場の雰囲気は消え失せ、軍艦の中が家庭のリビングででもあるかのような、子供向けアニメの典型的なありようだ。
なんじゃこりゃ、という感じである。
彼女の年齢は明確にはされていないが、若くして中佐待遇、しかもギレン・ザビ総帥の直属に上り詰めているのだから、並みのエリートではないはずだ。
一年戦争開戦時のシャア・アズナブルは少佐であり、ドズル配下の一士官でしかない。
つまり彼女の待遇の方が圧倒的に上なのだ。
ましてシャアのように直接武勲を立てる実戦配備員でない以上、より高い能力を示してその位置を得ているはずだ。
MSに自分から搭乗する選択をするあたりから、パイロットとして優秀な成績を残して昇進した可能性も否定できないが、それであれば、少年兵を前線で使わざるを得ないほど人材が枯渇しているジオン軍なのだから、このお話に描かれているような閑職ではなく、早い段階で前線に召集されないはずがない。
実力主義でクールなギレンの事、この位置を与える人間はかなりのエリートであり、組織への帰属意識が高い人間でなければありえない。
その彼女が、目の前で肉親が死んだからと言って人前で泣き崩れ、戦局よりも肉親の生存を優先するような発言をブリッジで行い、その後も数時間にわたって職務放棄するなどありえないことだ。
もちろん肉親の死は誰だって悲しい。
しかし、それを人前であらわにし、まして作戦を放棄するような発言は職業軍人としてはあり得ない。
そう言う行動が許されるのは、リアルを語らないSEEDシリーズのような坊ちゃん嬢ちゃんで構成された軍隊もどきと同じだ、と私は言いたいのだ。
物語の構成が最初からヒロイックなものであれば文句は言わないが、第一期はそのような低年齢向けのガンダムを否定してリアル志向を確立したはずである。
こんなヒロイックで個人主義の演出が許されるのなら、ヒルドルブが窮地に立った時、コムサイから突然メガ粒子砲を撃って危機を脱するとか、コムサイに実は変形機能があってMS化して戦っても良かったのだ。
今シリーズの最終話、マイが搭乗するビグラングが腕でつかんで投げたボールで他2機も撃墜などという演出で、戦闘のリアルさも放棄してしまった。
思わずギャグ漫画かそれは?とツッコミを入れたのは私だけではあるまい。
安易なヒロイズムによる感動への疑問
前述のマイ、キャディラック、カスペンの行動の変遷についても、キャラの意思変更に視聴者がついていけずぽかーん…である。
ご都合主義のアニメやドラマにありがちな展開なので、わからんではない。
人間性だけに着目してドラマを見れば、そうならないよりは良かった、という感じだろうか。
それにしても、キャディラックが立ち直るきっかけを、一瞬でも入れるべきだったと思う。
例えば、マイと弟の会話シーン、この戦闘の後食事でもしよう、と約束したことを思い出し、
弟を気に掛けてくれたマイを死なすわけにはいかない、と立ち上がる。
それまで髪をおろしている姿だったので、立ち上がった時に決意を込めて髪を纏める場面を入れるとより感動的だろう。
カスペン大佐が急に人道的(?)で頼れるベテランになるのも唐突過ぎる。
何よりもジオンの勝利優先というのなら貴重なモビルアーマー・ビグラングに慣れないマイが乗るという状況で大笑いするのはおかしいし、単に卑劣な男という設定なら最後の行動に納得感が無い。
そもそも論で、少年兵を書くのは理解するが、キャディラックの弟という設定が必要だったのか、わからない。
結局安易な感動を拾いに走って全体のまとまりを忘れたな、とスタッフに言いたい。
エンディングはめぐりあい宇宙のジオン版?
カスペンの犠牲とキャディラックの活躍で、死んだかと思われたマイが帰還するエンディング、これはスタイルとしては1stガンダムのクライマックスでホワイトベースのクルーの元に帰還するアムロと似ている。
しかし、決定的に違う面がある。
1stガンダムでは宇宙侵攻後は戦争の元凶であるザビ家以外はジオン軍の残虐性など一度も描いていない。
しかし本作は停戦命令が出た後も、しつこく攻撃してくるのは連邦側のみで、しかもその際下品な笑いなどを加えている。
戦争の愚かさ、虚しさなどを描くのであれば、両軍とも戦場に立てば愚かな殺戮者になる、というような書き方が望ましい。
それなのに本作の演出は、連邦側が一方的な悪、ジオンが善であり犠牲者という印象を残すだけである。
本作では徹底して連邦兵は悪という立場を貫いており、それでは結局悪の軍隊と闘う正義の使者という昭和のアニメのような古臭い構図を作り出している。
演出上で何の意図があるのか全く分からない。
これが本作の目指したところだとすれば、第一期の出来の良さはたまたま上手くいった、ということに過ぎない。
ちょっと過大評価だったのだろうか?
このあとの重力戦線でそれを見極めたい。
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