最強のSF性、泥臭い人間ドラマ、富野SFの到達点!
目次
ガンダムに並ぶエポックメイキング 後続アニメに大きな影響を与えた
本作の前年に制作した機動戦士ガンダムが富野由悠季の代表作であることは疑い得ない。だが彼のファンには本作伝説巨人イデオンを頂点とする人が多いのも事実である。ガンダムは人類の革新を描き、現在まで続く一つのジャンルとなったが、それはガンプラをはじめとするビジネス上の力も大きい。ガンプラが売れるからスポンサーは新作を要求する。お話ありきでシリーズ化しているのではなく、ビジネスありきなのだ。
イデオンは違う。悲しいほどにイデオンメカの玩具は売れていない。
それだけに本作の評価は作品そのものにあると言っても良い、と私は判断する。
そして作り上げられた本作に、後進のクリエイターたちは大きく影響を受けた。
ガンダムUCの福井晴敏、エヴァの庵野秀明、まどか☆マギカの新房昭之ら、後のアニメ界を背負って立つ人々がそれだ。
ここでは本作で語られた人間性、SF性を語りつつ、ファンに与えた影響と富野氏の状況を考察し、その位置づけを探っていこう。
人間を人間として書くことの意味
本作では主人公が敵の女性を人質に取り、命を長らえようとする。ひたすら内輪もめが続き、終盤になっても主要人物同士のいさかいが絶えない。主要人物が妊娠する。人種差別的発言も多い。非戦闘員である少女が私怨を晴らすために人を殺そうとする。
現在のテレビアニメではどれも普通に描ける内容だが、当時はそれが難しかった。
ただ、書けなかったものを書くこと、目新しいものを書くことを評価しているのではない。
例えばテレビアニメで初のベッドシーンを書いたとか、首が切断される残虐シーンを入れたとかを、やってやったぜと豪語するような、物語に関係ない目新しいだけの好意に自己満足しているような輩をわたしは軽蔑する。
本作は違う。人間を人間として描くことが必要だから、当時のタブーを破ってでもとことん描いたのだ。
それは何故必要だったのか。
イデという存在が、自分を創造した人間そのものを評価する、という物語の基盤があるからだ。
イデというSF的存在
この者たちは無限力を有する価値があるのか。宇宙を一瞬にして滅ぼすような際限ないエネルギーを、有効に利用できるのか。そのイデの視線を視聴者に重ねるために、醜く矮小で狭量な人間たちを描かねばならなかったのだ。
有史以来、争いと殺し合いを続ける私たちは、本当に他者を殺してまで生きるに値するのか。ザンボット3でも同様の問いを視聴者に投げかけたが、それはまだ富野氏が望む形ではなかった。
だがその時からコツコツと積み上げて来た実績と、少しずつ広げて来たアニメの世界での自由な表現への許可を、彼は本作に一気につぎ込んだ。
ある意味それまでの40年近い人生を全てここに集中したとも言える。
それが本作特有のSF性と人間ドラマの共存を生み出した基盤だ。
その実績といくつかの偶然により、富野由悠季は神になった
前述したように、ここまでの積み重ねをイデオンに詰め込んだ富野由悠季は、作家としてはここで枯れた、と私は見ている。
しかし、その実績といくつかの偶然により、この時点で彼は神となった。
無敵超人ザンボット3、無敵鋼人ダイターン3、機動戦士ガンダム、そして本作伝説巨人イデオン、このそれぞれに個性の強い4作を立て続けに生み出したことで(これらの作品はほぼ間をおかず、概ね1年に1本のペースで制作されている!)、このクリエイターは無限の可能性を秘めている、とファンは判断した。
なんといっても子供や若者が多い世界、彼らは疲れを知らないし失敗を許容する度量もない。
例えばあなたが親戚の乳幼児の子守をしたとしよう。最初は彼らを楽しませることを考え、あなたは色々な遊びを提示するだろう。ままごと、カードゲーム、ボードゲームなど。しかし彼らにとってそれは日常であり、既に飽きた世界。それを見越したあなたが、その場で創作し彼らが知らない遊びを提供する。すると彼らは狂ったようにそれに興じ、あなたを絶賛する。このお兄ちゃんは凄い! もっとやろう、もっとやろう!
彼らは体力の限界までそれを続けようとするがあなたは既に飽きている。何と言ってもあなたが提供したのは子供が楽しむことを前提にした幼稚な遊びだ。大人が楽しめるものではない。しかし、その時彼らはもうあなたを離さない。もっと、もっと、とあなたに群がる。
ここであなたできることは3つだ。
一つ目は、あなた自身が飽きているけれど好評の遊びを彼らが飽きるまで続ける、これは世に溢れる多くのビジネススタイルだ。
二つ目は、もっと面白い何かを提供すること。これは大変な道のりだが成功すればより一層の称賛を集める。
もう一つは、ごめんよ、もう面白い遊びは無いんだ、と彼らの期待を裏切り、神の座を降り隠棲する。
富野由悠季が選んだのは2つ目の道、新しいものを作り続けて神であり続ける道だった。
この時富野氏はまだ40歳になっていない。子供から見れば十分なおっさんだが、通常の人生を考えればまだまだ若く覇気に富んだ時期だ。隠棲するには早すぎると本人も周囲も思っただろう。
更に彼が神と呼ばれることを、いくつかの事象が後押しした。
まずは時代背景、ガンダム終了とともに80年代が幕を開け、日本は好景気に沸き、たかがアニメに大金を出す視聴者が増えた。客が増えればビジネスが成り立つ。彼が神であり続ける舞台はスポンサーが用意してくれた。
もう一つ、ガンダムとイデオンが打ち切りであった、という事実。これを価値があるのにそれを理解しない大人の愚かな行為、と信者=子供たちは考え、奮い立った。
神は我々信者が守る! 彼らは本気でそう考えた。
信仰は弾圧があるほど燃えるものである。彼らは署名運動を行い、熱心に商品を購入し、ガンダムの再放送、その映画化、イデオンの真の最終回である発動編などを勝ち取っていった。
ここに富野教団が完成した。
しかし、私はこの4年間が彼を潰した、そう思っている。
イデオンという頂点、そこから彼の凋落は始まる
創作とは充電を要求する作業だ。無理をして作り続ければ、伸びきったゴムのようになる。緩急を付けられなくなり、新しいアイデアも出ない。
しかし、それなりの能力があるクリエイターならば、例え既に枯れていたとしても、それまでに蓄えたものでなんとかその場をこなす。
そのような訳で、彼の内側では既に決定的であった枯渇が、他者に見えるまでには数年を要した。
本作終了後に間髪入れず展開するザブングルは完全にやっつけ仕事、その次のダンバインは枯渇を逆手にとってか、今までやらなかったもの=リアルロボット、近未来軍隊などの硬質な世界観をファンタジックメカ、中世騎士風の設定に置き換えるという工夫をしたが、コンセプトのみで力尽き、物語の構成は全く追いついていない。
エルガイムに至っては若手発掘と称して総監督の立場を半分放棄して永野護に責任を押し付けた。
この頃にはさすがに視聴者も彼が神ではなかったのではないかと薄々気付いてはいたが、次作のZガンダムまでは彼を信仰した者も多かった。
いろいろ不運もあったけれどガンダムなら彼は輝きを取り戻す、奇跡はおきる、だって彼は神なのだから。信者たちはそう信じて、Zに群がったのだ。
結果は皆が知る通りである。
その後彼の創作の泉が回復したと思われるのはターンエーガンダム、実に10年以上の歳月を要している。
続くキングゲイナーでも新しい世界を生み出すが、しかしその時彼は既に60歳を超えており、もはや新しいものを生み出し続けるのは困難になっていた。
Gのレコンギスタなどは惨敗としか言いようがない作品だが、しかし彼は未だ現役を名乗っている。
今後彼は華麗なる復活劇を演じきれるのか、あるいは年齢相応に無難なものを提供するのか、とにかく老害と罵られても彼は歩み続ける道を選んだようだ。
再び神と呼ばれる日を信じているのかもしれない。
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