『ロートレック荘事件』、叙述トリックを成功させるための仕掛けを読み解く
一人称に隠されたもう一人の登場人物
『ロートレック荘事件』は叙述トリックを用いたミステリである。叙述トリックとしてはありがちな一人称での語り手が犯人であるという手法を使っているとはいえ、この小説には独特のオリジナリティがある。それは登場人物の一人である浜口修の存在がラストに至るまで徹底して隠されていたことである。読み手は浜口修と犯人の浜口重樹を同一の人物として認識しているが故、最後まで重樹が犯人であることに確信が持てない。
確かに一人称での語りは読者をミスリードするのに適しているとはいえ、物語のラストに至るまでもう一人の登場人物を隠し通すのは並大抵のことではない。そんな筒井康隆の文章の技を検討してみたい。
仕組まれた友人「工藤忠明」
この物語には障害を持つ主人公重樹を支える友人として、大学の同級生工藤忠明が登場する。彼こそは読者をミスリードする最大のキーキャラクターである。
この工藤の立ち位置は極めて浜口修と近い。工藤は修と同じく重樹をサポートする立場であるし、女性に関する話も修と同じく重樹と一緒に率直に話し合うことができる。重樹が話しかけている相手が仮に修だったとしても、工藤がその場にいることを匂わせるだけで読者は「重樹の会話相手は工藤である」と思い込まされ、全く違和感を感じないようになっているのである。
冒頭の車中での会話も本来は工藤、重樹、修の三人で行われているにもかかわらず、工藤と重樹だけがしゃべっているように巧妙に作りこまれている。
「そうとも。今ならなあ。君の絵の二、三枚の値段であの会社の破産、救えたのにさ。」
「あの会社」というのは、俺たちの父親が共同経営していた貿易会社のことである。兄弟で経営していたのだ。兄弟と言っても義理の兄弟で、破産したのは六年前である。
工藤忠明の運転する車は熊沢駅の踏切を超えて別荘地に入った。(文庫版本文p8-9)
「あの会社」を経営していた兄弟というのは、工藤と重樹の父親ではなく、重樹と修の父親であろう。
しかしさりげなく会話の後に工藤の名前がでてきたりするので、読者はまったく修の存在に気が付かない。ここでいう「君」が重樹でなく、修を指しているのにもかかわらず…
「じゃあ、一緒に行こう」
わが忠実なる護衛兵が直ちにそう言っておれの方へ一歩近づいたが、俺は彼を押しとどめた。(文庫版本文p37-38)
このシーンでは重樹が修のことを「護衛兵」と呼ぶことで、その場に同席している工藤のことを指しているのだと読者に信じ込ませている。
工藤という登場人物は修を覆い隠すための筒井康隆の工夫の結晶なのである。
名前の呼び方への配慮
修と重樹はともに浜口姓である。従兄同士という設定が生きており、おかげで他の登場人物が「浜口さん」と言った時、これは修を指しているのか重樹をさしているのか、非常にあいまいになってしまうのだ。また修は画家、重樹はエッセイストという職業柄ともに「浜口先生」と呼ばれることもある。さらに工藤も大学教授という立場から「工藤先生」と呼ばれる。
「まああ。浜口先生たちじゃありませんの。まああ。いつ、お着きになりましたの浜口先生。まああ。まああ。ちっとも存じませんで。」(文庫版本文p20)
このセリフにおける「浜口先生たち」は「工藤先生と浜口先生」ではなく実は「浜口修先生と浜口重樹先生」なのかもしれないのだ。しかし工藤も先生という立場であるから読者は自然と「工藤先生と浜口先生」の意味であると捉えてしまう。
この名字の共通点を最大限に生かしているのが文庫版p49における2階平面図。
すべての人物の名前が各部屋の中に書き込まれている。工藤、絵里のように皆名前もしくは名字しか書き込まれていないのだが、一か所のみ「浜口重樹」とフルネームで書かれているのだ。修の名前が書かれていない…というアンフェアな事態を避けるための苦肉の策か。実はこれは「浜口」と「重樹」という二人の人物ですよという意味合いが込められている表示の仕方に見える。
「ロートレック」というミスリード
この殺人事件の舞台となったのは画家ロートレックのコレクションが飾られた通称「ロートレック荘」。ロートレックは足の発育が不全であるという浜口重樹と共通した特徴を持っている(これは冒頭の車中会話でもさりげなく引用されている)。このことから読者は浜口先生という画家は浜口重樹なのだと思い込んでしまう。実のところ画家の浜口先生は修の方なのであるが。
しかし、重樹が画家だと考えると不自然な部分はないこともない。
たとえば彌生夫人や五月未亡人が浜口画伯のことを、「凄いぐらいの美男子」「マスコミ人気も当たり前」「恰好いい」と褒めちぎる場面がある。もしここで容姿を褒めちぎられているのが障害者で身体的にコンプレックスを抱えている重樹だとすると、ここまで誉め言葉を並べる女性たちの言葉はおべっかではなく嫌味になってしまうのだ。これが修に向けたものならば(大げさすぎるとしても)お世辞としてはうなづけるのだが。
罪悪感という計算された設定
さて、登場人物の一人がここまで徹底して姿を消しているというトリックはこのアイディアだけでは真相が明らかになったときいかにも不自然である。しかし、事件が解明されたとき私が感銘を受けたのは叙述トリックを下支えしている設定の方に合った。なぜ修はここまで徹底して姿を隠していたのか。それは修が重樹の「影」として存在しなければならなかったという序盤のエピソードがあってこそである。
修は子供のころ、重樹に重傷を負わせ、下半身の成長を止めたという負い目を背負って生きている。作品中で一切その存在が触れられず、重樹という存在に覆い隠されていたという状態の修。これをただのトリック上の都合に終わらせないためにはあの子供のころのエピソードが必須だったのだろう。罪悪感から重樹のためにすべてをささげた修だからこそ、この作品から存在を抹消されていることに意味がある。第一章のエピソードは叙述トリックを物語的に成功させる計算された序章だったのである。
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