亡くなってからも愛してる。
目次
猫の納骨シーンまで描いた漫画は他にないと思う。
作者が一番最初に飼った猫で、ほかの漫画の連載に詰まると、その猫のエッセイでページを埋めてごまかしていたり、いろんな意味で漫画家として作者と成長を共にしてきた猫の漫画の最終版。
最愛の猫の死を、異国の地で迎えるとは、ただの不覚で済むのか私にはわからない。
作者が目の中の入れても痛くない可愛がりようの愛猫、年をとり病気がちになりそれでも愛していた。だがまだ大丈夫だろうと、作者が海外旅行に行っている間にその猫をなくしてしまい、看取ることができなかった。(同居人が死を看取った。)まあ最初は泣くしかない、自分は異国の地でなにもしてやることもできない。もちろん最初は死をうけいれるより、まだ大丈夫と旅行に行った自分を責めた。そして帰宅して改めて今度は自分の目でその死を確認する。ここからやっと本のタイトル…長い散歩が始まるといっていいと思う。
死してからの行為は、その猫への愛情なのか、自分への贖罪なのか?
長い散歩が始まった、作者は亡くなった猫を丁寧に布でくるんで、自転車の前かごに入れ、今まで好きだった場所、思い出の多い場所一つ一つ周っていく。たぶん私は、作者が旅行にも行かず、最後の最後までその猫とともに生き、天寿を全うするところまで見届けての最後の散歩なら、ひたすら悲しみや今までの漫画等で描かれた元気な猫の姿を思い浮かべて素直に泣きながら読めるのだろうと思う。
でも作者は「まだ大丈夫だろう」と弱っている猫を置いて、自分の趣味の旅行に出かけた。心配で毎日電話したとはいえ、死んでから亡きがらを自転車の乗せての散歩は、抒情的にかかれればかかれるほど愛猫の為ではなく、作者自身が愛猫を看取れなかった事への贖罪…罪の意識を少しでも軽くするための行動に思えてならない。一度そう思えてしまうと最後の最後まで、亡くなってからもネタにして本にして…本当にこの作者は愛情を持ってこの猫の事を大切に思っていたのだろうか?と疑問すら浮かんでくる。
看取れなかった償いなのか?
亡くなったあとをサラッと描くマンガ家もいる。死はなるたけ自分の心の中の深い部分に大切にしまいこむのが私的には愛情だと思う。でもこの漫画家さんは違う、そのあとの事も描き続けた、そうタイトルの長い長い散歩…で終わればまだそれでも美談だったろうに、火葬し、そのあとビニールシートを敷いたところに骨を広げ、明らかに骨意外の木屑やゴミを取り払い、ほんとうに骨だけとりだし、また牙等形ののこったものはペンダントにして持ち歩くようにしたとあった。
ほんとうに、骨の髄までしゃぶりつくすとはこのことかと思った。べつに猫漫画にここまで固執しなくても、独自性のある漫画を描ける人なのに、愛猫の死をここまでさらして、本にする(お金儲けの道具にする)のは、果たして愛情なのか?この本を読んで私の中で作者の株はだいぶ下がった。
自分が深読みなだけなのかもしれない、素直にかわいそうにと泣けばいいものなのかしれない。でも自分は死してからの行為、散歩や納骨までネタにして本にする作者の神経を好きになることはできなかった。
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