誰もがあの戦争の被害者(casualties of war)なのだろう - カジュアリティーズの感想

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誰もがあの戦争の被害者(casualties of war)なのだろう

3.03.0
映像
4.0
脚本
2.5
キャスト
3.5
音楽
3.0
演出
2.5

目次

生々しい戦争

ベトナム戦争は、冷戦時代のアメリカと旧ソ連がベトナムの地を舞台に戦った資本主義と共産主義のいわゆる代理戦争だ。戦争が激化する1965年(昭和40年)にはアメリカが本格的に軍事介入した。僧侶がガソリンで焼身自殺を図ったり、武装ゲリラ対策と称して村人が殲滅されたり、枯葉剤を散布したり、何かとショッキングなベトナム戦争のニュースは、世界で初めてテレビ中継された。

この戦争を題材にした作品はアメリカ映画だけでも数えきれないほど存在するが、その多くは反戦のメッセージが強く、凄惨を極めた戦場の様子をリアルに描写することで戦争の恐怖を表現したものが多いという印象を受ける。そんなベトナム戦争がテーマになっている映画ということで、退役軍人の回想シーンから始まるあたりから来るぞ来るぞと身構えて観ていた「カジュアリティーズ(casualties of war)」だが、想像していたほど刺激の強いシーンが多いわけでもなく、わりと淡々と最後まで観てしまった。

少なくとも1986年公開の「プラトーン(Platoon)」よりは格段に落ち着いて観ていられた。現代的で、お坊ちゃんのような顔立ちのマイケル・J・フォックスが主演というのもあったと思う。どうしてもバックトゥーザ・フューチャーのマーティ少年や、「摩天楼はバラ色に(The Secret of My Success)」のブラントリーがチラついて頭から離れないので、“自分のココロに嘘がつけない純真な青年の物語”を眺めてる感覚だった。

なにこの違和感

ちょっと強い言葉かもしれないのだけれど、正直なところ「ずいぶん偽善的な映画もあったもんだな胸糞わるい」というのが観終わったあとの率直な思いだった。罪のない村の少女を拉致して証拠隠滅のために殺害した米軍兵士がよほど悪いことをしたような描き方ではないか。もっと冷酷で非人道的な殺戮兵器の正統性を主張する国が、そんな隅っこをつつくのかと違和感を覚えたのだ。

おそらく私のそんな印象は的が外れていて、この作品は事実をありのままに映像化しているのであって、登場人物の善悪をジャッジしているわけではないだろう。邦題は、“カジュアルな人たち”という意味ではない。“戦争被害者”と訳されるが、ここで使用されているカジュアルという単語には、“不慮の災難”という意味がある。「無辜の村人を突如襲った災難」といったところかと想像しながら観ていた。

タイトルの通り、この作品では米軍兵士とベトコンの間で繰り広げられる銃撃戦よりも、兵士に拉致され強姦た小さな農村の少女がどんな目に遭って、どんな最期を遂げたかというところに焦点があてられている。とある兵士がベトナム戦争中に見た少女強姦事件を告発し、1969年のニューヨーカー誌に載ったという実話を映画化したものであるらしい。

最初のショッキングなシーンは、リラックスムードの小隊がベトコンの奇襲攻撃に見舞われ、気のいいブラウンが戦死する場面だ。私は道端で人がばったりと倒れるのを初めて目撃したとき、電話で救急車を呼ぶ手が震えて自分でも驚いたという小心者なので、変な話だがブラウンが亡くなった後で村の少女を拉致しようと言いだしたミザーブ軍曹の気持ちは少し理解できる気がした。もちろん平時なら大問題になるし、自分の身内が被害者だったらと考えるとゾッとする。決して起こってはならない拉致強姦事件なのだが、戦時下ならどうか。

常軌を逸脱した現実

数々の戦争映画にも描かれているように、仲間の兵士が爆撃によって吹き飛ばされた自分の手や足を夢中で探しまわったり、飛び散った自分の内臓を急いで腹腔に押し込みながら平静を装ったりするという常軌を逸した光景が、紛れもない現実として目の前に展開するのだ。戦友が苦しみながら死んでいく姿を見るのは、自分が死ぬより辛いことかもしれない。町の娼婦は、バドワイザーやパウンドケーキと同じように、おかしくなりそうな精神をニュートラルに戻すための大切な精神安定剤だったことだろう。

狂気と隣り合わせの生活を強いられる兵士にとって、娼婦を買うことと村の少女を拉致することにどれ程の違いがあっただろうか。実際、ミザーブ軍曹は少女のことを“娼婦”と呼んでいたし、そう思いたかったことだろう。いつ何時、武装した村人に殺されるかもしれないという恐怖感は怒りとなり、憎しみとなって非力な少女に向けられたのかもしれない。しかし戦争中といっても犯罪は犯罪で、告発されれば裁かれなくてはならない。ミザーブ軍曹自身もその自覚があったから証拠を消すために少女を殺傷したのだ。

いかにも神経質そうなミザーブ軍曹を演じるショーン・ペン(Sean Justin Penn)は、マドンナの元夫で映画監督としても知られる俳優だ。部下に的確な指示を出し、ベトコンの落とし穴に落ちた間抜けな主人公を救出する勇敢な軍曹が、次第に狂気を帯びてくる様子には緊張する。その鬼気迫る演技には凄味が感じられた。

それでもある作家が戦争体験を綴った手記によれば、戦闘中の兵士の顔は恐怖と怒りが入り混じった独特の表情で、断末魔の形相は決して再現できるものではないらしい。その地獄の鬼のような、獣のような形相は、一度見れば一生忘れることができないほど恐ろしいものであるらしい。戦争は、ただ人がたくさん死ぬという以上に恐ろしいもののようだ。

少女オアン

凄い演技といえば、アジア人の少女オアンもすごかった。ほとんどオカルトだ。きっと主人公のエリクソンも同じように、どの世帯も無防備に戸口を開けたままで就寝するような素朴な集落に忍び込み、夜中に少女を拉致するという行為。毒蛇や毒蜘蛛がうろつくジャングルの中を裸足で歩かせ、飲まず食わずで5日間連れ回したというのも事実なのだろう。随分ひどい話だ。

同僚のディアズが寝返る場面は予想通りという感じ。自分と同じ信念を、友も貫くと信じていた世間知らずで純粋な主人公が、隊の中で孤立する重要な場面だ。キャスティングや脚本次第ではもっと伝わったかもしれないのにと残念だった。少女に言葉が通じないことにエリクソンが苛立つシーンでは、切なくて少し涙が出た。あの場面で少女がしきりに訴えていたこととは何だったのだろう。

戦争映画はどんな終わり方でもまったく救いが無い。この作品の最後に登場するアジア人の女子大生もそうだ。演じているのは惨殺されたカンボジアの少女と一人二役で、回想シーンが終わったとき主人公のエリクソンと一緒にギョッとすることになる。まるで何かに憑り付かれたかのように女子大生の跡を追うエリクソンと、憔悴しきったエリクソンに優しい言葉をかけて労う女子大生。

女子大生は天国のオアンなのか

天国に昇った少女オアンが、エリクソンの心優しい行いに感謝しているとの暗示なのか。もう終わったことなのよと赦しを与えているのか。少し軽くなったように見えるエリクソンの表情からはそんな解釈ができなくもないが、あの恐ろしい最期を迎えた少女が成仏できたとは到底思えないし、一瞬でもエリクソンと心通わせるシーンがあったかと振り返っても思い出せない。

ついでに言えば、同じアジアの言葉としてエリクソンが少女に語りかけた「ママさん」という言葉だが、あの若さでベトナム戦争に従事している青年が、いつどこで憶えたという設定なのだろう。他にもいくつか気になるシーンがあったが、もう観かえしたくない映画のひとつだ。

この映画の中で正しいことを言っている人間がいるとすれば、それはきっとエリクソンに「忘れろ」と助言した黒人の上官だろう。彼は諦めろと言ったのではなく、自分自身の体験を通してこの世界で起きることを裁くなと教えたのではないだろうか。誰もがあの戦争の被害者(casualties of war)なのだ。

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