見た者の人生観を変える天下無双の放浪劇
見る人を魅了する圧倒的な描画
本作に出会って,私は改めて「漫画」の素晴らしさを実感した。「宮本武蔵」については,これまでも小説やドラマ,映画,漫画など,多くの媒体を通して伝えられてきた。その名前を知らない者は日本にはほとんどいないだろう。ストーリーを伝えるだけなら小説でも良いし,宮本武蔵についての知識は歴代の作品や,文書を見れば分かることであろう。そういう視点で考えると,「改まってバガボンドを見る意味はないのではないか…」と思う人もいるかもしれない。しかし,私はこの意見を真っ向から否定する。「井上雄彦」が描く「バガボンド」という作品は,単に宮本武蔵の人生を説明するだけのものではないのだ。井上雄彦が描く1本1本の線は力強さと繊細さを兼ね揃えており,風景,建造物,人物の細かい表情や心情まで美しく描写している。写実的な画風が時に残酷,あるいは生々しく感じるシーンもあるかもしれないが,それ以上に引き込まれる魅力がある。文字や映像では表現できない「漫画」ならではの世界を,井上雄彦は作り上げているのである。一方で,この井上雄彦が世に出はじめた当初は,現在ほど絵が上手くなかったと感じる。彼の代表作であるバスケ漫画「スラムダンク」の1巻を見ていただければわかると思うが,現在の画力とは程遠い。現在に至るまで,どれだけの苦労や努力があったのかはわからないが,一筋縄ではいかなかったであろう。井上雄彦は,バガボンドの作中で成長と変化を繰り返していく武蔵と,自分自身の辿った軌跡を重ね合わせる場面もあったのではないだろうか。
狂気を心に秘めた「武蔵」の濃く深い人生
主人公である武蔵の物語は,彼が青年期の話から描かれ始める。世は戦国時代の末期。父母からの愛のない環境で育った武蔵は,友人の本位田又八とともに,剣士としての強さと出世を求めて天下無双を目指した旅に出る。彼が育った環境と時代がそうさせたのだろうか,その心には常人では到底持ちえない狂気が住んでいた。多くの人々,剣豪達との出会いと決闘を経て心身ともに成長していく武蔵だが,私は武蔵が自身の中の狂気と共闘しながら,対話しながら成長していく姿が深く心に残っている。
剣士として殺さねば殺される世界に身を置き,真剣での決闘に負けることは死を意味する世界では,狂気を持ってしまうのも至極当然のことかもしれない。現実として,武蔵はその常人を超えた意思の力によって強くなっていく。しかし,物語が進み,彼が強くなって多くの人を殺め,天下無双を目指した剣の道を前進すれば前進するほどに,その考え方に変化が現れるのだ。勝負に勝つという単純な剣の強さだけでなく,本当に大切なもの,本当の強さを考え始めた時,武蔵は一緒に強くなってきた自分自身の狂気との対話を始める。狂気は時に爆発的な行動力を起こし,人間を成長させたり,何らかの成果を残させたりするのかもしれない。しかし,人間は変わっていく。時代の変遷や自分自身の成長,その時に想う本当に大切なものによって何が必要なものも変わるのである。武蔵の自分自身を育て,生かしてくれたともいえるだろう狂気との対話は,成長して自立し,親離れをしようという子供のようにも見えてしまう。そしてそこに自身の姿を重ね,思いをはせている自分がいる。
透き通るほど純粋な強さを持つ「佐々木小次郎」
ライバルとなる小次郎の物語は,武蔵の物語が大分進んだころにスタートする。生まれつき耳が聞こえず,言葉を話すことができない小次郎は,赤ん坊の時に実の親に捨てられてしまう。そして,元剣豪の鐘巻自斎に拾われ,育てられる。そうして聴覚も言葉も持たない彼は,文字通り「剣一筋」の人生を歩むことになるのだ。
生まれながらに色々なものを持っていなかった小次郎は,代わりに剣について多くのものを得た。彼は剣によって人生を楽しみ,剣によって人とつながっていく。剣だけでそれができてしまうのは,恐ろしく強いだけでなく,それ以上にその剣と心が,美しくまっすぐだからだろう。青年期に剣を利用して強くなり,出世しようとした武蔵とは大きな違いがここにある。武蔵の鬼気迫るような剣の魅力とはまた異なり,小次郎が振るう剣からは清々しさを感じとることができる。いや,小次郎にとってはもはや,剣を「振るう」「使う」という表現が適正ではないのかもしれない。彼にとって剣術とは私たちが食べる,歩く,寝るのと同じような行動なのだろう。物語で,小次郎の剣は武蔵の剣にも大きな影響を与える。同門で同じ釜の飯を食べて修練を積んだわけではないし,少し顔を合わせた程度であるが,高いレベルで剣を極めようとする者同士である彼らの中には確かに通じるものがあったのだろう。その一瞬で,彼らは互いに切磋琢磨して力を高め合える存在になったのだと思う。
激動の時代を過ごす人間達の様々な生き様
武蔵や小次郎を取り巻く人間関係を考えたとき,全員が全員最強を目指しているかと言えばそうではない。作中では戦いには身を投じず普通の人生を歩む人々の描写もされているし,剣の鍛錬に励んで強さを求める剣豪達もそれぞれ目指す方法や価値観は異なっている。
武蔵の幼馴染であり,かつては出世を目指して共に村を出た又八は「戦いから逃げた人生」を歩んだ。女や詐欺など欲望のままに生活する彼は,武蔵との対比でとても悪者に見えるのだが,それでもこの時代を生き抜くには必要であったのだろうとも思える。曲がった道を進みながらも,彼なりに苦しみ,気づき,大切なものを見つける姿から感動をもらったのも事実だ。
武蔵と吉岡一門との戦いは,様々な意味で見応えがあった。京の名門であるこの吉岡家は,門下生も非常に多く,単身で己を磨いてきた武蔵とは異なる方法で剣の道を進む者達である。その当主であり吉岡流最強の剣士である吉岡清十郎と,それに並ぶ実力があると評価される弟の吉岡伝七郎は,それぞれ異なる方法ではあったが,吉岡一門を守ろうと全身全霊をかけて武蔵と決闘する。武蔵にはない,家や同志,歴史,威厳を守るための戦いに,心が震えた。生か死か極限の状況の中で,色々な矛盾をはらんでいたとしても,それでも何かを守るために尽力できることは素晴らしいと感じた。
本作を読み進める中で私自身もたくさんの登場人物に出会い,その生き方に触れたが,どれも魅力的であった。これは,それぞれ道や価値観は違えども,ひたすらに,懸命に生きる姿はやはり美しいという証明なのだろうと思っている。
真の強さとは何か
武蔵や小次郎が進む果てしない剣の道。彼らと彼らに関わるたくさんの人々の生きる姿を見ると,剣など人生に微塵も関係ない現代を生きる私自身も,「真の強さとは何なのか」ということを,深く考えさせられる。
武蔵の時代はいわば,強くなければいけない時代だ。強くなければ,奪われ,簡単にその命を失ってしまう世界。剣で天下無双を目指したり,剣術や武術を極めて出世を目指したりすることが当然の世である。その時代で武蔵は天下無双への道を進み,多くのものを得て,そして失っていく。物語が進み,次第に最強に近づいていく彼の試行錯誤の様子を見ていると「真の強さとは何か」ということに考えを巡らせているように見える。剣で常人離れした強さを発揮する姿とは対照的に,その姿は実に人間的だ。
誰も寄せ付けないような常軌を逸した強さで勝ち続けることも,紛れもなく強さのひとつであろう。しかし,多くの人間が常に勝ち続けられるわけではない。勝つ人間がいれば,必ず負ける人間がいる。それでは,「人間は必ず負けた方が弱い。だから人間の多くは弱者であるか」というと,それもまた違うのではないかと思う。このバガボンドという漫画は,強いことが生きるための条件ともいえる時代を生き,天下無双に駆け上がる武蔵の苦悩や成長を通して,「人間としての真の強さとは何なのか」ということを,読者に問いかけているようにも感じる。
天下無双を求めて放浪の旅を続けた武蔵だが,実は私たち現代を生きる人間も,生の意味を探して人生をさまよう放浪者といえるのではないだろうか。彼の生き方から本当の強さを学び,今を強く生きていきたい。
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