「仏教的なモノ」になる武蔵
悩む武蔵
宮本武蔵といえば,毎日剣の研鑽に励み,女子供には目もくれず,一心不乱に「天下無双」を追い求める姿が目に浮かぶ。その姿はまさに「かっこいい男」といえる。しかし,この作品を読んでいくと,宝蔵院胤舜との出会いあたりから,その「かっこいい男」像はだんだんとずれていく。生死の狭間,すなわち,「殺し合いの螺旋」による苦しみと向き合いながらも成長する武蔵が,この作品には描かれている。その苦しみに相対する上で重要な役割を果たすのが沢庵や柳生石舟斎だ。いや,彼らというよりも,彼らの背景にある仏教思想といえる。「時々刻々と変化するこの世の中で確かなものなど一つもない」と教える仏教思想を,沢庵と柳生石舟斎は折に触れて武蔵に教えていく。
「仏教的なモノ」と「そうでないモノ」
この作品を読んでいて面白いのは,「仏教的なモノ」と「そうでないモノ」がはっきりしているところだ。そして,この両者にたびたび出会うことで武蔵は悩み苦しんでいる。「仏教的なモノ」は前述した沢庵や柳生石舟斎,また,最近の作品では秀作がそれにあたる。「そうでないモノ」の典型は伊藤一刀斎だろう。最初,武蔵は「そうでないモノ」だった。つまり,天下無双を求めていた。しかし,柳生石舟斎が言うように天下無双はただの言葉であって,仮に天下無双と名付けられたところで急性心筋梗塞で倒れることもあるし崖から誤って落ちて死んでしまうこともある。つまるところ,「天下無双」というのは永遠に続くものではなくて,一過性のものである,というのが柳生石舟斎の真意であろう。そしてこれは仏教の「諸行無常」に通ずる思想である。武蔵は柳生石舟斎に出会ったとき,この思想が理解できなかった。しかし,この出会いは武蔵に何かひっかかるものを残したはずである。
小次郎との出会い
小次郎が耳が聞こえないことは,小次郎が自然を鋭敏に捉える能力を育むこととなった。人間は自分の力で自分の体を動かしていると思いがちだが,仏教的に言えば,すべてのありとあらゆる事物が原因となって自分の体を動かしているのである。決して,自分だけで人は生きているのではない。そんな思想が,耳の聞こえない小次郎には自然と身についていたのではないかと思う。そういう意味で言えば,小次郎は「仏教的なモノ」である。途中で武蔵は小次郎に会いたくなるが,おそらく武蔵は無意識的に小次郎のそういった側面を見出していたのかもしれない。
伊藤一刀斎の挑発
伊藤一刀斎はいわゆる「天下無双」である。武蔵の言うように「極まっている」。しかし,ここで武蔵が「極まっている」と言ったとき,既に「仏教的なモノ」に限りなく近くなった武蔵から発せられた言葉ということを鑑みれば,この言葉は皮肉であろう。すなわち,独力ですべての物事が何でも思い通りになるという思いあがった心根を「極まっている」と言っているのだと解釈できる。しかし,そんな一刀斎の挑発に乗っかった武蔵はまだまだ「そうでないモノ」である。
秀作の村での居候
「仏教的なモノ」と「そうでないモノ」との出会いの果てに,秀作がいる村に武蔵はたどり着く。既に「仏教的なモノ」に限りなく近い武蔵は,それでもまだ「そうでないモノ」なのである。秀作はそれに気づいており,武蔵がまだ自分は自分だけで生きていると思っていることを見抜いていた。しかし,武蔵はこの村で変わっていく。武蔵は農耕作業を通して自分は自分だけで生きているのではないことに気づいていくのである。ずっと「助けて」を言えなかった武蔵が「助けて」といった場面は,その変化がはっきりと分かる場面である。それを気づかせてくれたのは秀作だ。別に思想を説いたわけではない。秀作はそのぶっきらぼうな態度で武蔵に「教えた」のだと思う。
今後への期待
秀作の村で武蔵は真に「仏教的なモノ」になれただろうか。答えは否であろう。恐らく武蔵の中で煩悩は渦巻く (あの武蔵から出る煙みたいなものは煩悩といえる)。しかし,「仏教的なモノ」に限りなく近くなったのは確かである。小次郎の待つ小倉でどのような展開が待っているのか。最後に今後の期待を述べる。私は最後の巌流島で確かに小次郎と武蔵は決闘をすると思う。しかし,勝負の行方がどうあれ,勝負の後に武蔵は真に「仏教的なモノ」になると思う。それが死によってもたらされるのかどうかは分からない。私はこの本を武蔵が「仏教的なモノ」になる物語だと捉えている。その最後の相手が「仏教的なモノ」そのものである小次郎だとしたら,なんと綺麗な終わり方だろうか。沢庵が作中で言っていたように,私たちは一人で生きていると思ったら命に価値はなくなる。みんなが複雑に絡み合って生きている (というよりも,生きていられる) ということに気づいたなら,すべてのあらゆるものは等しく価値があり,大切なものになる。そういう仏教的な思想に武蔵が最後に気づいたら,素敵な終わり方だと思う。
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