夢野久作にとっての貞操 - 押絵の奇蹟の感想

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押絵の奇蹟

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演出
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夢野久作にとっての貞操

4.04.0
文章力
5.0
ストーリー
3.5
キャラクター
4.0
設定
3.0
演出
3.5

目次

夢野久作といえば

夢野久作といえば、三大奇書とデカデカと看板をかけられたあの「ドグラ・マグラ」ばかりが有名となって、狂気だ猟奇だと大袈裟な張り紙がつきまくっている大正・昭和時代の作家さんであるが、この考察も、ご多分に漏れずドグラ・マグラありきとなることを始めに断らせていただく。なにせ筆者も、若い時代に「三大奇書」の大看板に目がくらんで、夢野久作に手を出したものですから……というわけで、以下の文章もすべて、ドグラ・マグラと本作を両者とも読んだということを前提に書かれたものとなります。

ドグラ・マグラ

さて、それではまず初めに、ドグラ・マグラについて。様々な不思議と目くらましに彩られたドグラ・マグラの文章の中には、男女と恋と貞操と、それに血縁にまつわるお話が強烈な重要度を持って語られている。だが、ドグラ・マグラ自体、作者本人が「ノンセンス」と言い切る文章なものだから、それをどこまで本気にしたら良いのかわからないと思った方も多いと思う。いかにもオカルトチックな心理遺伝の考察、ループ構造を匂わせる結末に、作中にて登場してしまう「ドグラ・マグラ」という本そのもの……とにかく読者に、「この文章は本気か?」と悩ませてくれる。そもそもドグラ・マグラが書かれた時代の男女観自体が割りと現代と相容れないものであるために、文章全体に臭う貞操やらなんやらの話が、作中においてどのような意味を持っているのかがわかりにくくなってしまうのも無理のないことだろう。一体どこまでがドグラ・マグラ的仕掛けであって、どこまでが普通の内容なのか……それを読み解くヒントは、当然作者の他作品の中にあるわけで、その中でも最もわかりやすい例だと思われるのが、本作「押絵の奇蹟」だと思う。

単純考察

まず、「押絵の奇蹟」そのものへの考察として……本作において考察すべきポイントといえば、もちろん主人公である女流ピアニスト・トシ子と歌舞伎役者・半次郎がホンモノの兄妹であるのかどうかというその一点になる。この命題に、その他の全ての論点が集約される、これはそういう構造の物語である。果たしてこの二人の親は、不義不倫を働いていた者同士であるのか、それともどこまでも純真潔白な心だけの恋を交わし続けて生きた二人なのか……それが、この二人が実際の血縁関係にあるかどうかを決定的に分かつという、道徳・医学の両面から迫る重大な疑問の焦点というわけだ。しかもそれは、作中において明言がなされていないというのだから、はたしてどちらが正しいのかとぐるぐる頭を回してみたくもなってくる。が、しかしながら、これに関してはぶっちゃけてしまえば、割とどちらでもアリということになってしまうのだろう。ただ、それだけでは考察としてつまらないので、も少しだけ突っ込んで考えてみれば……最後は一点、トシ子の母親が死の間際に漏らした言葉、「不義をはたらいた覚えはない」という自供をどう取るか次第という点に帰着する。トシ子と半次郎が実の兄妹であるか否かという点に関しては、法学的な立場からすれば、間違いなくイエスであり、それは言い換えれば、二人の親は浮気者ということになる。そんだけ二人が互いの親に似てるなら、そりゃ血縁だ、はい閉廷。いくら真に迫っているからって、人の言葉を信じちゃいけない。真実はいつだって具体的な証拠から見出すべし、である。だがしかし、本作においてまことしやかに語られる一つの学説、すなわち、強き親の想いが子の形質として発現するという、いいだけロマンスあふれるそれを信ずるならば、ここにはもう一つの可能性が出てくる。心だけで愛し合った二人が、それぞれに愛おしき人の姿を子に映した、夢のあるラブストーリー……てなわけである。それでは果たして、正解はどっちなのかと言われれば、そりゃあわからないとしか言えない。作者が意図的に、どちらとも取れるような形で終わらせているのだから、それはどちらと取るも自由なのである。本作は実話ではなくフィクションであることを鑑みて、トシ子の目に映った母の心をそのままに信じるならば、トシ子と半次郎は双子にあらずということにはなるのだが……。

時代を感じるズレ

とまあ、とりあえずとばかりに簡単な考察を書き連ねてはみたものの、実際このオチは、時代前提が大正・昭和であるから通じる部分が大きいことは、わざわざ説明するまでもないことだろう。ここで問題にしたいのは、「二人は真実の双子であるか否か」ということが、「互いの親の愛が不義のものであったか否か」という目線で語られるということへの、疑問そのものである。これ、現代においてはどうしたってピントがズレて感じてしまう話である。こんなことを昔の小説に言ってもしょうがないことではあるのだが……主人公が不義の子であるかどうかとか、割とどうでもいいじゃないか。偏見受けるの不憫だなあってなだけのことである。まあ、本当の兄妹かどうかは、結婚するのであれば重要な命題ではあるのだけれど、しかし、親の愛が純潔であったかどうかなんてのは、どうにも現代には馴染まない発想だ。当然、当時の価値観や周囲の目線を考えるならばそれは重大なお話かも知れないが、それはともかく、二人の両親の問題であるわけで、本人たちには関係がないじゃないかと言いたくなるのは、筆者が現代っ子であることの証か。かの時代においては、結婚に関わる本人の意志が、現代と比べればなんとも薄い時代であり、そんな中で、伴侶以外の人間に思いが残るのは一般的事象であったのだろうが……では、そんな相手を思い続けながら結婚生活を続けることと、実際に行為に及んでいることの間に、それほどに深刻な違いなどあろうか?と、現代的目線ならば言いたくなる。

が、そんなこともまた正直どうだって良いのである。これは今の価値観で語られている物語ではないわけだから、そこに現代道徳的な観点から文句を言う気はサラサラございません。大事なのは、血縁というもの、及び心理的な不義だとかなんとかと言うものが、作者・夢野久作にとって大変な重大事であるという理解だけである。

心理遺伝に通ずる設定

ドグラ・マグラにおける最重要事例であり、かつ最も読者を悩ませる不可思議設定・心理遺伝。当然科学的根拠などあるはずもない、オカルト風味をつけるためのSF設定であるのかと思いきや、作中においてはもっともらしい論文を恐ろしいほどの分量で書き抜いてみたり、キリストやブッタまで引き合いに出して語ってみせたりと、とにかく読者に「これは真実である」と訴えかけているようにも感じられるという、まさに「ドグラ・マグラ」な設定であるのだが……この心理遺伝なるものを、作者は果たして本気で信じていたのだろうか?それとも、これも目眩ましの一つでしかないのだろうか?という点に関しては、なかなかどうして掴みきれないものである。そんなときに本作、押絵の奇蹟に着目してみると、作者・夢野久作が心理遺伝というものに込めた思いが見えてくるのだ。

すなわち、夢野久作の信ずる親子・血縁・貞操に関する正義というものが何なのかが、この押絵の奇蹟には如実に書き表されていると言えはしないだろうか。本作とドグラ・マグラの共通点……それは、とにもかくにも親の意志が子へと遺伝し、その人生を完全に縛ってしまうという一つの恐怖であり、またそれに振り回されてしまう、プラトニックな恋の哀しさである。

はっきり言って、それだけのことである。

それだけのことが、作者・夢野久作にとっては、この上なく重要かつ真に迫った問題であったのだろう。ドグラ・マグラにおける心理遺伝とはすなわち、作者の人生に関わる恐怖から着想を得た、ひとつの比喩であったように筆者は思う。が、これはドグラ・マグラの考察で語ることなので、ここでは割愛することとするが……とにかく、あの奇書にて描かれている血縁の世界観は、決して「ドグラ・マグラらしい」ものではなくて、「夢野久作らしい」ものであるということが、本作・押絵の奇蹟を読むことで理解できるのだということだけ、ここでは語らせていただく。

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