スティーブンキングを楽しめる彼らしい7つの短編集
目次
あり得ない設定にここまでリアリティを持たせる手腕
この本は全部で7つの短編が収められている。その全てがスティーブンキングらしさが詰まっており、時に読みにくくなる長編とは違い、気軽に楽しめる作品となっている。ホラー作家として名を馳せる彼だけどいつもいつもホラーばかりではない。タイトルにもなっている「幸運の25セント硬貨」などは、不思議で切なくだけど最後がハッピーエンドで全体的に優しさを感じさせる内容になっている。
この短編集の最初の物語「なにもかもが究極的」は、下水道にコインを落としていくというシーンが浮かびそこから作っていったとキング自身が語っているように、突拍子のない設定から話を膨らませリアリティを持たせていくというのはキングの得意技なのかもしれない。どうしてそうするだけで部屋が提供され生活まで保障されるのかは後でわかってくる。その展開は冒頭では想像は絶対につかない。下水道にコインを落とすという不可思議なことに気をとられてしまいがちだけど、ストーリーは尻切れトンボで終わらず思いがけない展開で、その上納得の行く形で終わっているところがすごいところだと思う。
日常のことと思われることがそうでなくなった恐怖
「L・Tのペットに関する御高説」は、仲むつまじかった夫婦がお互いがお互いに送りあった猫と犬をめぐりケンカが絶えなくなってしまい、最後には奥さんが出て行ってしまい悲惨な結末を迎えてしまう話だが、この「お互いがお互いに送りあった猫と犬」というところに非常なリアリティがあると思う。当初仲のいい時は絶対に相手が喜ぶものを選び、その喜ぶ顔をみて幸せになるのだと思う。そういう時代があったことは否定しないし実際そうだったのだと思うけど、密月が過ぎてからはそうもいえなくなる現実感にあわせ、自分たち以外の生き物がいる。夫が妻に送った猫は夫の味方をし、妻が夫に送った犬は妻の味方。猫は妻のほうには見向きもしないけど、犬は夫の靴の中にしかゲロをはかない。そういう積み重ねが相手への憎悪をかきたてて、いわば代理戦争のような形をとっている。個人的には犬よりも猫のほうが好きだけれども、この妻は限りない憎悪を猫に対して感じているらしい。自分の犬が夫にしていることはたいしたことにとらず、猫に自分がされたことは「動物収容所送り」にするという理不尽さは、L・Tでなくとも頭に血が上りそうになった。そもそもスティーブンキングは鼻持ちならない女性を描くのがうまい。映画監督がこのように見せたいという思惑どおりに、これも彼の思惑通りなのかもしれない。そんな鼻持ちならない女性が行方不明になってしまったときのL・Tの嘆きようが意外ではあった。夫婦喧嘩が理由で連続殺人犯に襲われたかもしれない(ほぼそうであろうという推測つきで)ということは、あり得ないこととは言い切れないリアリティがあるように感じられる。
変化する絵
変化する絵のホラーはスティーブン・キングの作品ではよく見られる。「ローズマダー」ではその絵が変化するだけでなく時に実際の風景になり中に入り込めたりもしたし、「サン・ドッグ」では絵ではなかったけども撮れているはずのない写真が撮れ、そしてその構図がどんどん近づいてくるという、ちょっと違うけど変化するはずのものが変化するという意味ではよく似ていた。この本に収録されている「1408号室」でも呪われた部屋にかけられた絵は刻々と変化する。これはキングお得意のホラー要素だけあって、その変化する絵の書き込まれ感が素晴らしい。恐らく少しずつしか変化せず、見ようによっては気づかないくらいの変化だけども、変わっていることは疑えない。このあたりの腹にじんわりくる恐怖はさすがと思う。それも偶然ガレージセールで見かけて、その時は魅力ある絵に思え購入したという、自らその恐怖に飛び込んだとも言える無念な感じもよく出ている(「ローズマダー」で出てくる変化する絵もそのような抗いがたい魅力を感じ、ローズ自らが購入している)。確かにこのあたりの恐怖感は日本人にはあまり馴染みのないものかもしれない。肖像画を描いてもらう文化もないし、家に絵がある家もそうあまりないだろう(レプリカではなく)。それでもこのコマ送りのように絵が変化していく様を、ましてや自分を殺そうとしていると思われるような変化を目の当たりにするのは悪夢のような恐怖ということは日本人にも想像に難くない。この話は、最後逃げ切れたと思いきや、それが叶わなかった主人公の死を思わせる様子で終わっているが、実際はどうなのだろう。彼自身もその絵に取り込まれ、次のターゲットを狙うのかもしれない。そのような終わり方をする物語だった。
誰でも体験する可能性のある日常の中に潜むホラー
「ゴーサムカフェで昼食を」はタイトルは、言わずとも知れた「ティファニーで朝食を」をのオマージュであろうけども、その内容はまったく真逆のスプラッタホラーとなっている。この通り魔的な被害は誰にでも起こりうることであり(こういう事件は専ら外国でのイメージだったけれども、日本でも最近はそのような事件は多くなっているように思う)、だからこそ恐ろしい。目の前で起こっている惨劇に脳の処理能力が追いつかず呆然としてしまうあたりや、のどを切られその最後の言葉が「ブーツ」であったり、リアルすぎて頭の中ではまるで映画を観ているように映像が浮かんでしまう。また離婚調停中の相手をはからずとも守らなければならない事態に陥っていることに対する男の腹立たしさや、またその相手がまったく感謝を示さないことによって燃え上がる苛立ちと憎悪は、このような非常事態にだからこそ抑えることができずに通常よりも膨張していくところは手に取るように分かり、その男と同じように私もその相手に憎悪を感じてしまった。それくらい臨場感あふれる作品だった。多分映画化するには単調な展開だろうけど、短編という短い枠で目いっぱい感情を振り回されたような気がする。
アメリカンホラーとジャパニーズホラーの違い
「1408号室」は映画化もされて有名な作品だと思う(これを読むまで原作が短編だと知らなかった)が、これを怖いと思うかどうかは多いに環境の違いがあると思われる。もちろん実際にこのような目にあえば恐ろしいし、泊まった人間が12人自殺し30人自然死をしたという部屋になど泊まろうと思わないけれど、それでもやはり日本人にはジャパニーズホラーのほうが恐ろしく感じるだろう。例えば受付に通じる電話をかけたときに「ダチはみんな死んでる!」とか言われるよりは無言電話やなにかをかりかりと爪でこする音が聞こえるほうが恐ろしく感じるだろうし、メニューに書かれている文字が瞬きをするたびに変化するよりは、その光る面に自分以外の何かが映るほうが恐ろしい。そういう意味ではこの作品は完全なるアメリカンホラーで、それほど怖いという思いはしない。これは映画化されたときに映画館で見たけれど、サミュエルLジャクソンがミニチュアのようになったときに若干笑いそうになった。キングのホラーでも怖いのはあるし(「キャシー」や「ミザリー」はあまりにも有名だろう)好きなのだけど、時々恐怖対象が違いすぎて怖くない作品がある。個人的には吸血鬼ものもそのひとつだ。この作品もそれになるけど、なにも悪いというわけでなく、これはこれでアメリカンホラーとして楽しめる作品だと思う。
翻訳者の違いを楽しむ
スティーブンキングの作品は昔からよく読んでいた。前述したアメリカンホラー的要素があるものもあれば、ジャパニーズホラー的要素を備えしっかりとぞっとさせてくれるものもある。軽快な文章もあれば重厚な趣きの文章もあり、それぞれ楽しめる。そしてそれを彩ってくれるのは翻訳者の手腕でもある。この本に収録されている7つの短編は5人の翻訳者たちが受け持っている。そしてそれぞれがその手腕を発揮しており、その特徴を楽しめるようになっている。私が知っているのは白石朗氏と池田真紀子氏だけだったけど、白石朗氏はスティーブンキングの大作をたくさん翻訳していてそれこそ大御所のような存在だと思う。個人的には少し堅苦しいような文章のイメージはなきにしもあらず。池田真紀子氏はアイリス・ジョハンセンシリーズで目にした時以来、面白いなと思ったときによく翻訳されている人だった。女性らしい柔らかい文章が印象的だった。ここでは「幸せの25セント硬貨」が彼女の訳で、後から見たときにやっぱりなと思ったりもした。個人的に一番好きだった「なにもかもが究極的」を訳した朝倉久志氏は意外にも高齢の方で、なのにこのスラングを駆使した文章が頭に入りやすく分かりやすかったのが素晴らしいと感じた。
もちろん原文で読めればそれに越したことはないのだけど、翻訳されている文章もまたその違いや特徴を楽しめるし、欲をいえば同じ作品を違う翻訳者で読んでみたいと思ったりもする。
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