命の尊厳を伝えるジャングルの王者三代のクロニクル
目次
生命ははかない。ひとつひとつは雄大でもなければ貴重でもない
手塚治虫は人間ではないものを主人公にした作品をいくつも書いているが、本作はまさに動物モノの代表作と言えるだろう。
動物モノといっても単に自然の美しさや尊さを描くハートフルな作品ではないし、また自然の中で生きることの厳しさだけを描くサバイバルでもない。
冒頭でこそ、肉食獣が草食獣を狩るシーンが挿入され、自然の厳しさを詠う作品かと思われるが、パンジャの登場によってその雰囲気は一蹴される。
彼はジャングルの王であり、弱い動物たちを守りつつ文明とも戦う旧時代の覇者だ。
知能も高く、彼を狙う人間たちを再三手玉に取るなどの見せ場もある。
しかしやはり動物の域を超越することはなく、人間の手に落ち命を落とす。ここで「自然の脅威」ではなく「自然に対する人間の脅威」がクローズアップされる。
屈強な勇者であったパンジャも殺されて毛皮になってしまえばその威厳もない、というシーンが明確に記述されるが、その後この毛皮は息子レオと出会い、その意思を伝える。この演出は後にルネとルッキオが生まれた際、死したレオがルネに再会するシーンにも生きる。
「死」の話に戻ろう。本作では動物にしろ人間にしろ死ぬ瞬間は実にあっけない。
レオの妻ライヤが病に倒れるシーンも過度な描写は無い。(当然妻を亡くしたレオが悲しむシーンはしっかりと描かれている)
また、レオ自身が雪山で失明し、もはや生きて帰れない、と死を受け入れる様は何気ない生活のワンシーンであるかのように自然だ。
これらから、どんな勇者も聖者もひとつひとつの命は同じようにはかない、というのが本作のスタンスだと読み取れる。
ジャングルの王者三世代を描くクロニクル その1:誇り高きパンジャ
パンジャ、レオ、ルネの三世代を描くクロニクルに動物同士の戦い、文明との関わり方、人間の醜さなどいろいろな要素が盛り込みながら本作は進行していく。
前述したパンジャは大自然の王者であり、文明を否定する側であった。彼は人間を憎むとともに人間に飼いならされた動物も憎む。
このスタイルは意固地に見えるがそれはおそらくパンジャ以前の王者から連綿と受け継がれてきたプライドなのだ。
彼に守られた輪の中にいれば動物たちは安全であるが、輪を守る彼自身は常に命懸けだ。
本作が最初に書かれた1950年、第二次世界大戦終結からわずか5年のこの時にはまだそのような守るべき輪が世の中に存在したのかもしれない。
日本が戦争に敗れ、アメリカ文化が直接なだれ込んでいる時期だ。
次世代のレオはそれを素直に受け入れられるとしても、それ以前の生き方をしてきた父パンジャは新しい流れを受け入れることはできない。彼は死ぬしかなかったのかもしれない。
しかし、その際「誇り」だけは残す。
クロニクル その2:高い知恵と強い意志を持つ高潔なヒーロー、レオ
パンジャの死後、息子レオは良き人間との出会いを得て、自らの聡明さと意思を持って文明との共存を目指す。
訓練により人間の言葉をしゃべれるようになったり、文字を解したりと荒唐無稽な面もあるが、手塚治虫は本作で「人間と動物の共存」という理想郷を描いたのだろうか?
答えはノーだ。
前半、レオがジャングルに戻る前後までは「獣」と「人間」の違いに悩むシーンも見られるが、そこは深く掘られない。レオは最初こそ野蛮なジャングルを嫌うが、早い段階で「文明の良い部分を取り入れて動物たちに住みよい社会を作る」というスタンスに切り替わる。
言葉を覚えるのも文字を習得するのも、ケン一という特定の人間とのコミュニケーションを図るものであって人間社会に進出するツールではない。
彼は人間の良い所を学びつつも人間社会そのものとは距離を置く。
しかし、愛娘ルッキオを病から救ってくれた礼にと人間とともに命がけの探検へ赴くことになる。その約束を堅守する姿は、もはや人間以上に高潔だ。
そもそも、本作では最初から動物たちは人語を話せないだけで理解しており、ある意味人類を超越した存在である。
つまり手塚はレオを単なる動物としてではなく、人間では描きにくい高潔なヒーローとして描いていると私は考える。
クロニクル その3:「共存」ではなく「人間」を目指したルネ
では次世代のルネはどうか?
彼はジャングルで生まれたが、レオが作り出した文化の中で育ったので文明社会に強いあこがれを持つ。
つまり彼は祖父パンジャが嫌い、父レオも距離を置いていた「人間」になりたかったのだ。
だが当然ながらそんな願いは叶わない。
ここから悪い人間につかまってサーカスで働かされるという展開はピノキオそのものだ。
夢破れて早々にアフリカへ帰りたいと希望するあたりはレオのような強い意志は感じられず、むしろ普通の人間的である。
ジャングルの掟を守り抜いたプライド高いパンジャ、自らの知恵と意思で新しい王国を作ったレオとは比較にならない存在として描かれるが、後日譚では立派にアフリカで暮らしているようなので、新たな世界を生み出すバイタリティーは無いものの、先王レオが生み出したものを継承する一回り小さい王として無難に生きたのかもしれない、と私は長いこと思っていた。しかし今回このレビューを書くにあたり再読してみて少し考えが変わった。ルネは父母の死を通して成長したのではないか。
次項でそれを語りたい。
最終的な答え=命と想いは継承するもの
結局手塚治虫は本作で何を描いたのか。
私が注目するのは「命と想いの継承」である。
死にゆくパンジャが身ごもった妻に想いを託し(そもそもパンジャは妻の命を守るため自らの命を懸けたのだ)、妻は生まれたレオにパンジャの想いを伝える。
このシーンは非常にわかりやすいが、その後も描かれる主要キャラの死に際してそれぞれは誰かに命や想いを継承していく。
病に倒れるライヤは無事を祈り続けた息子ルネに生きて再会することは無かったが、アフリカへ帰る船中のルネに自らの死を持って回心を促す。
このシーンが無ければ特に意思を持たず夢破れて帰ったルネが独り立ちすることは難しかっただろう。
そして主人公レオは、自らの体の全てを投げ出し、ヒゲオヤジを助ける。
全滅必至の雪山でヒゲオヤジのみが助かったのはまさにレオの知恵と意思と想いの結晶だ。幼少のころから世話になったという思い、慕っているケン一の家族を死なせたくないという思い、更に最愛の娘ルッキオを救ってくれた人間との約束を守るという意思。
手塚治虫の仕掛けなのか偶然なのかはわからないが、毛皮となってもプライドを伝えた父パンジャと同様に毛皮になった姿で息子ルネと再会するレオ。
ヒゲオヤジはレオがいかに困難と闘ったかを語るだろう。幼少のころの思い出もまたルネが自分と重ねられる話が多数ある。王者として戦い抜いてきた威厳も毛皮から伝わるだろう。そしてそこにはパンジャのプライドも含まれている。
そうしてルネは全てを継承し新たなる王になっていく。
そして傍らには妹ルッキオもいる。レオを支えた周囲の動物たちも先達としてルネを支えたに違いない。
「ジャングル大帝」という言葉は本編中では出てこないが、言うまでもなくこの誇り高い家系の3人の勇者のことだ。
彼らは自然に、人間に、文明に翻弄されながらも、しかし自分の信じる道を探し続けた。
その傍らに人間たちは自分たちの小さな都合でうごめいている。結局月光石が何だったのか?国家の威信ってなんだ?そんなものとは別に命は生まれ消えていく。
最後に手塚治虫本人が書いた言葉で締めくくろう。
生命の尊厳と生きるということの価値を情報によって子どもたちに与える態度をとることが、ぼくたち大人の高度情報化社会に対する何よりの心構えではないかと思います。
(『ガラスの地球を救え』より)
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