演劇漫画の金字塔
当時中学生が読むには早すぎた
このマンガを初めて読んだのは、中学生の頃。ちょうど主人公北島マヤが家出した時と同じくらいの年齢の時に読んだ。その時は自分に何が出来るか、何に向いているかなんてさっぱりわからないのに進路とかは具体的に出さないといけない学校にうんざりしていて、北島マヤのように何をおいてもやりたいと思えるものに出会えることが単純にうらやましかった。うらやましい反面、実際自分にここまでする勇気があるのか(中学生なのに家出したり)自問自答したりして余計に落ち込み、以来遠のいていた作品でもあった。大人になってそういうことがあったことを思い出し、急に読みたくなってもういい年になってから「大人買い」なるもので全巻そろえた。主人公北島マヤは、天性の才能(台本を一度で覚えてしまうのは才能だろう)に加え、様々な努力をしている。本人が努力と思っているかどうかは謎だが、毎日演劇のことを考えて生活している。煌くような天性の才能が光の部分としたら、目隠しして生活したり四つんばいで生活したりの努力の部分は闇の部分だろう。闇があるこその光などと、そういったところまで中学生だった私が理解してこの本を読めたとはとても思えない。「大人買い」ができる大人であったからこそこのマンガの魅力が髄まで理解できたのかもしれないと、今となっては思う。
主人公北島マヤの無自覚のプロ意識
マンガでは美人でもなく平凡な女の子としてよく表現されるが、それこそ役者の顔だと思う。とりたてて特徴がないからこそどんな役柄でも演じられるし、何より役者にとってつらいイメージの固定が避けられる(ライバル姫川亜弓は特にこの“イメージの固定”傾向が強く、本人もそれを意識して色々な役をやろうと心がけている。)。そしてマヤはどんな些細な役柄でもおろそかにせず、その具体的な人物像を作り上げ、歩き方ひとつとってもその役柄にはまった歩き方をする。挙句、体の動きを制限するためギプスをつけたり、山にこもったりもする。このあたりの描写(演劇部のチョイ役とか、田淵エミの映画の脇役とか)は、本当にいろんな役者に読んでもらいたい。これだけのことをしているのかどうか。またこれはプロとしての意識のひとつだとも思う。
マヤのすごいところは、自分を取り戻すのに時間がかかるくらい、役柄に入り込んでしまうところ。ひとつの舞台が終わった後には役柄としては返事ができても、自分北島マヤとしては返事ができないのだ。このあたりの描写はいつ読んでもページをそのまま進めたくないくらいに、読み手を放心とさせる。それだけで役者として大成しそうなものだけど、マヤの演技が演技でなくなってしまうことにより周りの役者がそれに翻弄されてしまうことで舞台が成立しえなくなること。マヤのずば抜けた演技を描写することで余計な説明を省き、素人にも実感としてそれが肌で分かる。そして「舞台あらし」として彼女は敬遠される。こういった、ただ天才と描くだけでなく、天才ゆえにぶち当たる壁の描写もしっかりあるのが、ストーリー展開のうまさだと思う。
そして役に没頭するだけでははつかみ得ない役が多々あるということ。日本舞踊やなぎなた、果てはバレエなどを経て得る様々な身のこなしが必要な役柄があるのに、彼女はライバル姫川亜弓によって気づかされる。ここがすごい。才能があって台本1度で覚えて役柄に魂を乗っとられるくらいの役者でも、できないことがあるというリアリティ。これでこのストーリーがぐっと締まったことは間違いない。
他の演劇漫画では最近読んだ「累」が印象的だったけど、あれはちょっと展開がホラー風味だし何より口紅を介して相手に成り代わるっていうのが違うようにも思う。演技で美人にもなんでも見せるほうが、顔はどうあれ役者だと思うから。
ライバル姫川亜弓の成長
映画監督の父親と女優の母親の間に生まれ、美貌も持ち合わせた彼女は、登場した当初は鼻持ちならないお嬢様女優だった。それも思えば自分ほどの女優はいないと言う自信(それを支える努力)からきていたのかもしれないけど、その自信を初めて揺らがしたのが北島マヤだった。もともとは死ぬほどの努力で役を得ていた亜弓にとって、息をするように自然に役に入ってしまうマヤは、羨みと妬みの対象になったに違いない。でもマヤと出会ってすぐの頃くらいは、それほど亜弓の行動にはそういう描写はなかった。逆にマヤを陥れようとした役者を(舞台で役者としての格の違いを見せ付けることで)排除したりするくらいだった。このあたりの描写では彼女のプライドの高さがひしひしと伝わってくるのだけれど、あまりリアリティを感じなかった。もっとどす黒いものを感じてもいいと思うから。でもそれが爆発したのが、紅天女の里のつり橋でマヤを見殺しにしようとしたところ。ここはものすごいリアリティを感じる。「見なかったふりをするだけでいい」はずなのにそれができず、結局は助けに走ってしまう。誰でもきっとそうなる。あの亜弓の立場なら。その汚い部分が自分にもあることに気づき亜弓は愕然とするが、それも北島マヤと出会わないと発見できなかったことだろう。マヤもそうだが、亜弓も共に成長しているのだと思う。
マヤの演技は読んでいて鳥肌がたつくらいの描写は多々あるのだけど、亜弓の演技でそれはあまり感じない(唯一オリゲルドのときくらいか)。それはマヤが魂の底から役柄に入り込んでいるのに比べ、亜弓はどうしても表面のみと言う感じがするからだ。このあたりのことはカメラマンのハミルがうまく言っていたと思う。だけど、目を悪くしてからはまた違う演技を手に入れた。ここからの展開がとても待ち遠しい。
切ない紫のバラの人
マヤのあしながおじさん的に様々な世話を焼きながら、それを隠してきた速水さん。彼は紫のバラの人としてしかマヤに好意を示すことができない切なさが、よく彼が一人になったときに描写される。マヤの恋愛は時々出てくるけど、素顔の北島マヤとして恋愛をしている彼女は、演劇をしているときの彼女とは対照的に見ることができる。また、マヤは決して美人ではないけど、その演劇に対する熱意と必死に生きるひたむきさから色々な人から愛を申し込まれたりしているが、逆に亜弓はあまりそのような浮いた話がないのも面白い。いくつかのマヤの恋愛事件の中でも速水さんとのそれが、一番マヤにとって大切だろう。でもまだ紫のバラの人が速水さんっていう告白はまだという展開の遅さに、毎回歯噛みさせられる。
名作の劇中劇「紅天女」
ここまでの名作を劇中劇でだせる作者は他にいないと思う。これだけで別の本が成立するくらいの内容の濃さは、「ガラスの仮面」愛読者なら誰でも分かっていると思う。あまりの作りこみように、もともとある話かと思うくらいだった。(余談だが、この「紅天女」はこの劇中劇を原作として新作能としても上映されている。)この「紅天女」を亜弓とマヤが競うところがあるのだが、この時のマヤの演技は鳥肌がたった。本当に天女が乗り移ったようなシーンは何度も読んだ。だからこそ、誇り高かった亜弓のプライドさえ砕きただの女にしてしまったのだろう。前述のつり橋のくだりはここに繋がる。こういうマヤの演技力のすごさが肌でわかる描写の繰り返しだからこそ、このマンガをこれだけ長く読めるのかもしれない。
未完の大作にならないでと願う
30年以上続く名作では他に「王家の紋章」が有名どころだと思うけど、こちらも負けてはいない。作者はいま何歳かと調べてみたら2017年で66才。「王家の紋章」の作者に比べたらまだまだ若いけれど、最近は新しい巻がずっと止まったままで気になるところ。1年ほど前京都でどこかのバレンタイン企画のようなもので、書き下ろししたらしいポスターを何枚か見たけど、その前に最新巻を読ませてくださいと切に願う。
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