進化するヒースクリフ
嵐が丘の向こう側
いわずと知れた大人気作です。現在TVアニメ放送・実写映画化が平行し、菓子メーカーコラボ等など現在進行形で話題を提供してくれているのは周知の通りですが、ハチクロブームを思い返せば期待も当然でしょうね。それだけのパワーがある作品です。
ただ、識者やファンによる様々な考察も広く展開されている作品なのに、なぜか『嵐が丘』との類似性が語られていない…(?)ようですので、拙いながら触れてみようかと思います。
19世紀イギリスの女性作家E・ブロンテの長編小説『嵐が丘』は、端的に言えば少年期に虐待され、恋人に捨てられた天涯孤独な男の復讐譚です。ヨークシャーの荒涼たる土地を舞台に、嵐が丘と呼ばれる館の主人・アーンショーが、孤児のヒースクリフを保護したことが悲劇の発端でした。
3月のライオンの主人公・桐山零は、不慮の事故で家族全員を亡くします。そして父親の友人で、プロ棋士の幸田八段もアーンショーのように、親族に見捨てられた零を将棋の内弟子として引き取りました。
幸田が善人であることに疑いの余地はなく、幸田を好いていた零も子供心に幸田家の良い子供であろうと気遣います。しかし敢えて言うなら巡り合わせが悪かったのでしょうか、零が良い子であろうとすればするほど、幸田家における彼の立場は悪化します。
美しく気性の激しい幸田の娘・香子がまた嵐が丘のキャサリンそっくりですが、零に対する彼女の攻撃は、むしろアーンショーの長男・ヒンドリーを思わせます。
アーンショーが台無しにしてしまった子供達へのお土産の対比となるのが、幸田の配慮を欠いたクリスマスプレゼントのエピソードです。それにしても弟子である零への将棋セットに対し、香子には子供っぽいぬいぐるみ、弟の歩には目新しくもないゲームとは…。三人の子供達の凍った表情には、読み手として心を抉られました。
幸田から将棋の指南を受ける香子と歩から、プロ棋士である父親への敬愛が伝わるだけに残酷です。結果、歩は不登校に、奨励会を辞めさせられた香子は荒れて、環境はますます零にとって針のむしろとなってしまいます。
ヒースクリフはアーンショーが亡くなり、ヒンドリーが家督を継いだことで虐待を受けることになり、更には愛を育んだキャサリンが裕福なリントン家に心を移したことで、その運命も一変します。
それぞれ養われた家を出奔する構図は同じなのですが、ヒースクリフは復讐のために全てを破壊するべく戻り、自身をも破滅させます。しかし理不尽に家族を失くした過去のある零は、幸田家の崩壊を望みません。
亡き父が喜ぶから続けていたに過ぎなかった零の将棋の才は、年若くして彼をプロ棋士として自立させ、中学卒業と共に幸田家を出て独り暮らしを始めます。そして殺風景なマンションの部屋で将棋を糧に日々を送る中、零はその生き方に疑問を持ち、1年遅れで高校に通うことを決めました。
その決意はどうやら彼にはプラスに働いたようです。そしてここまで物語が進むに至り、嵐が丘とは完全にその後の展開が分かたれました。
将棋のことは全く解らないのですが、あえて言うなら戦局がひっくり返ったとでも言うのでしょうか。
父からの遺産
ここで少し3月のライオン本編の方に戻ります。主人公・桐山零は、元は裕福な医者の家庭に生まれました。家族からの愛情に不足はなかったようですが、元々内向的な性格で友人はおらず、将棋はかつてプロの棋士を目指していた医者の父親から指南されたものでした。
将棋が好きだった訳ではない、と独白する零は、家族に不幸さえなければ棋士にならなかったのでしょう。学業は優秀だったようで、おそらく父と同様医者になったかも知れません。
ただ、病院運営を生業とする裕福な家系であるに関わらず、家族を亡くした零は相続問題の中で厄介者と見做されます。そういうことが可能なのか知りませんが、口止め料として相応の寄付金と共に施設に送られ、存在そのものが抹消された可能性さえあったようです。
幸田が親友の忘れ形見の窮地を見過ごせなかったのは当然のことでしょう。養子ではなく、将棋の才能を買われて内弟子として引き取られたのも、元の桐山一族にとっては、体裁も繕えて都合が良かったとも思えます。結果として幸田の家は嵐に見舞われますが、本能的に彼の手を取った幼い少年を、誰が責められるでしょうか。
プロになり、幸田の家を出て虚ろな生活を続ける零は、性質の悪い先輩棋士に路上放置されたところを、母性に溢れる川本家の長女・あかりに救われます。最初は遠慮がちに川本家に出入りするうち、末妹のももに亡くした妹の影を見つけ、その名前通りに明るく元気な次女・ひなたには、徐々に思いを寄せるようになります。祖父で将棋好きの和菓子職人・相米二も零を暖かく迎えます。
当初人付き合いを避けていた零も、高校教諭の林田、同年輩の棋士仲間・二海堂、人格者の島田八段や、初めての部活などで、徐々に環境が賑やかになって行きます。
行き詰まり、苦しさのあまり一度は捨てようと思った将棋の世界ですが、その将棋が零を内側から豊かにしてゆき、最新刊では川本家最悪の事態を回避させた功労者となり、今や若き棋士・桐山零の運気は上昇気流(^-^)。今後は安心して作品を楽しめそうです。
零の父親は、結局息子にかけがえのない遺産を遺してくれたのかも知れません。しかし一方の川本家の元・父親、これは奪うばかりの悪魔のような男でした(~_~;)
なんにせよ、もう妻子捨男の顔なんぞ見たくもありませんよ、悪霊退散!
幸せを掴むヒースクリフ
さて、ここで川本家を嵐が丘に於けるスラッシュクロスのリントン家と想定すると、次女のひなたがヒースクリフに誑かされるイザベラということになりますね。しかし零にとって川本家は守るべき家族であり、むしろ香子のほうが復讐鬼・ヒースクリフになりかけた感がありました(^_^;)
個人的に、甘ったれで我儘な香子に共感することは出来ないのですが、現在放置されている状態の、後藤とのエピソードが描かれること待ち状態ですね。それによって彼女の印象も変わるかもしれませんし、何より零と和解して欲しいものです。ああ、可哀想なくらい影の薄い歩とも…。
ヒースクリフには恋人に裏切られた絶望と復讐心しかありませんでしたが、将棋という救命ボートに魂を結び付けて生き延びた桐山零は、健やかな川本家によって救い上げられたのでした。
そして川本家に苦難が降りかかった時、何とあの弱気だった零は敢然と立ち向かいます。桐山くんはどうやら、面倒ごとを抱えるほうが強くなる性質だったようです。
有名なE・ブロンテの、ほぼたった一つの作品として著された『嵐が丘』。ブロンテが3人姉妹というところも、川本3姉妹と類似しているのは偶然なのでしょうか。
E・ブロンテの小説は、自身の経験から生み出されたものというより、想像=イマジネーションの産物であるという解釈を見つけましたが、羽海野チカ氏にも同様の傾向を感じます。
氏のもう一つの代表作・ハチミツとクローバーは、孤独な学生時代を送った羽海野氏自身の、こうあればいい、という理想を描いた作品であったそうです。
女性の地位が低く、その活躍すら認められなかった時代に、荒涼とした環境で育まれた想像力と、孤独という強烈な飢餓を埋めるために、創作という方向に放出された凄まじい熱。
時代も国も違えど、創り出すエネルギーというものは、抑圧されていればこそ爆発力が大きいのでしょう。
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