深く心に残る名作
傑作
この映画は、私にとって今まで観た中で最も心に残る名作のうちのひとつで、世紀の大傑作だと思っている。人間という生き物を過不足なく表現し、賛美するこの映画は、公開当時の1987年には見向きもしなかった作品だが、あの頃の自分には何の魅力も感じられなかっただろうと思う。それでもあの頃、難解なフランス映画の映像美にただ魅せられて週に何本もビデオを借りて観たり、劇場で居眠りをしたことは無駄ではなかったと思うのだ。あの日々があってこの映画を味わう感性が養われたと思っている。
この映画の良さを言葉で表現するのはとても難しい。ひとつには凡庸なストーリーのせいだろうか。人と人との触れ合いを通して心の交流が生まれ、最後はハッピーエンドという何の変哲もないお話だ。この映画が世界から受けている評価を知らずに、あらすじだけを先に読んでしまったら多くの人はおそらく最後まで観ようとは思わないのではないだろうか。私もそうだった。
初めてこの映画を観ようと思ったきっかけは“何となくオシャレ”な印象があったから。ドイツ映画なのに「バクダット」というタイトルなのも気になった。バグダッドとはイラクの首都とは違い、アメリカフロリダ州の町の名前だった。そんなバグダッドの真っ青な空と、黄色い給水タンクのコントラストの効いたジャケットも印象的に映った。
オシャレな映画を愛するオシャレな自分に陶酔したかったのかもしれない。その後、何度も思い出しては見返しているこの映画。その間に知識も増えてこの映画の見方も少しずつ豊かになってきたと思う。何度見ても美しく、回を重ねるたびにこの不思議な世界感への移行がスムーズになってくる。そんな不思議な魅力を持つ映画だ。
かったるいプロローグ
荒涼としたアメリカ西部のモハーベ砂漠。ラスベガスからロスへと続く「Route66」の路上。始まりからしてもう“かったるい”。もちもち食感のジャポニカ米を食べて育った日本人には先天的に耐えられない「乾き切った世界」がそこには在る。次に車から出てくるのはおじさんと太ったおばさんで、しかも何やら揉めていると思ったらおばさんが置いて行かれる。おばさんはドイツ人だ。
重い荷物を引きずって、埃っぽい砂漠の道をゆく暑苦しいおばさん。ひたすら道路と荒野だけが広がる片田舎。そこに蒸気機関車用の給水タンクが建っている。よく見ると砂漠に張り付くようにしてカフェが佇む。一瞬、意識が遠くなる。あぁ面倒臭いなぁというのが第一印象だ。せっかく時間を取って、観ようと決めているから観ているのであって、この映画はこの時点でちっとも魅力的ではない。人の第一印象を決めるのは初めの数秒だと聞くが、映画だとどれくらいなんだろう。
それでも途中で観るのを止めようと思わないのは、おそらくこの映画があまりにも乾き、観ていて辛いからだ。モーテルの女主人ブレンダと夫、どうしょうもない子供たちとの関係。苛立ちにと諦めに支配された世界はプチ地獄だ。この先もしばらく、この映画は乾いた世界を私たちに見せつける。私たちは何とかしてこの世界に救いを見出そうとして粘る。その場を立ち去ることもできるのに、先へ先へと期待を募らせながら、太ったおばんさんをじっと見守っている立場から、自主的に潤いの要素を探そうとする段階へと移行していくのだ。きっと心理学では何らかの名前が付いた心の動きなのだろう。人間の心理って、つくづく変だ。
ジェヴェッタ・スティールの歌声
この映画の最大の特徴は、テーマソングである名曲「calling you」の存在感だろうか。歌詞もストーリーにマッチしているので、映像とよく絡んで映画に奥行きを与えている。人間離れしたオーラを放つジェヴェッタ・スティールの伸びやかで透明感のある歌声は、だれもがきっとどこかで耳にしているはずのポピュラーな曲だ。一度聴いたら忘れられるものではない。この歌声なしに、この映画は成り立たない。
そのBGMに流されるようにして、観る者はこの映画の世界へとぐいぐい引きずり込まれる。乾いたままゆっくりと入り込んで、いつか気が付けば湧き出る泉に肩までどっぷりと浸っているのだ。泉とは、この映画の場面に見出されるものではない。自分の内側から湧いてくる泉だ。ジェヴェッタ・スティールの唄う「calling you」は、ちょうど砂漠の下を流れる地下水脈に似ている。確かにそこにあるはずなのに、浴することのできない心の泉。私たちは誰でも、この地下水脈を求め、呼び続けているのではないだろうか。
乾いた砂漠をジャスミンと一緒にさまよい、きれいに掃除しながら、はじめは砂漠のように貪欲で自ら潤うことを知らず、無個性だった中年女性のジャスミンに、少しずつ色が付き始めていることに気付く。不思議なことに太ったドイツ人女性がとてもチャーミングに見えてくるのだ。主婦の単なる習性に過ぎない滑稽な働き。マジックというベタな手段。しかし、そんなところに人生を変える大きな転機が隠れていた。
乾き切ったモハーベ砂漠は、無意識に惰性で生きようとする人の心の常の象徴ではないだろうか。人間の脳は惰性を好むと聞く。身体と生命の安全を保つのに最も合理的に適しているらしいのだ。しかし実際には、惰性は何も担保するものではない。それどころか次第に心が固くなり、人を寄せ付けなくなってしまう。人とのかかわりは、良かれ悪しかれ常に刺激を携えてくるからだ。同じことの繰り返しは、“当たりまえ”という発想を育て、相手に当たり前を期待して、裏切られたと言ってわめき散らす。まさに冒頭の女主人ブレンダの姿であり、それを苦々しく観ていた私自身の姿でもあったと気づくのだ。
前向きなメッセージ
そんな無限の地獄へ一石を投じるジャスミン。太ったおばんさんの小さな行動に、ちょっとした勇気をもらえるのもこの映画の魅力のひとつだ。観る者は主人公とともに固い甲冑を少しずつ脱ぎ捨てて、無意識の自分を解放してゆく。人生に遅すぎるということはないんだし、物事は思ったよりもシンプルなのだと前向きになれる。帰る場所があるという小さな幸せや、人と人が繋がることのくすぐったいような喜びを、この映画の登場人物たちは教えてくれる。
あるいはこの映画を観て、映画から何かを得たと感じるのは間違いなのだろう。初めから私たちの記憶の中にある映像、眠っていた記憶が、ジャスミンの差し出した呼び水によって呼び覚まされ、再び呼吸を始めるというべきなのかもしれない。振り返れば、この映画は初めから私たちの心の奥にある何かを刺激し続けている。たとえば「置いて行かれる」ことへの恐怖と絶望からこの映画は始まる。自分を置き去りにした夫、人生を諦め苛立ちの中で生きる気難しい人たち。乾いた大地。これらの風景はすべて、自分と他人とを隔てた外側で起きていたことだ。
爽快感
ドラマはどんどん好転し、いよいよクライマックスというところで呆気なく終わりを迎えたかに見える。またしても私たちは、この加速度的好転が当たり前とばかりに映画の世界でリラックスしていたことに気付かされ、夢から覚めたような気持ちになる。そして期待を裏切らない爽やかなラストに安堵する。すっかり軽やかになった心の底から、静かな泉が湧いているのを体感できる。人間業とは思えない、この映画の持つ不思議なパワーだ。
この映画を観終わって暫くすると、きまって物語を振り返りたい心境に駆られる。ストーリーからは伝わらない、味わい深い何かがしっかりと心の中に残って鼓動を打ち始めるのだ。映画を見始めたときの、砂漠のように荒涼とした心とは明らかに違うところに立っている自分。心が乾いているという自覚すらなかったではないか。
これはどこで撒かれた種なのだろうと来た道を振り返るとき、全ては自分の中にあったものだと気付いて何とも言えない幸せな気分に浸れるのだ。きっと私たちの「人生」も、そんな感じに終わるんだろう。「浮世の悩みは魔法のように消え失せて」、感謝しか残されないのだろう。
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