はっきり言ってエロティックホラー、名作を汚すな!と怒鳴りたい
目次
最初に言う。原作は不朽の名作だが、この映画は全くの駄作だ
いくつも言いたいことはあるが、映画評として公正さを保つため、原作とここが違うからダメ、という批判をするつもりはない。当然原作付き映画としてその解釈の違いは検討するが、一つの作品として成り立っているか、映画全体とそれぞれのシーンに意味があるか、のみを論じたい。
レイコは出すべきだったのか?
133分の尺の中で、何を残し何を削り何を加えるのか、という選択は原作を持つ映画なら必ず考えるところだろう。アイデアだけを流用して全く違う作品に仕上げるのならともかく、本作のように基本的流れが同じであれば特に重要な事だ。
中心となるワタナベ、直子、緑は絶対に外せない。次に重要性が高いのはレイコ、次いで永沢、ハツミ、だろうか。
本作では永沢とハツミは思い切りよく削っておりそれは功を奏している。ハツミは美しく品があり、しかもワタナベをのことを思いやる姉のような役割も完璧にこなしている。問題はレイコだ。
全体に登場シーンは少なく、原作にあったワタナベと直子を見守りつつ、自分自身も問題を抱えている、というキャラではなくなっている。それならルームメイト程度にしても良かったのではないか。何しろ途中経過なしで最後のワタナベとの性交だけが存在するので単なる色情狂にしか見えない。極めつけに性交後に「7年間を取り戻した」というセリフ。ああ、この監督はレイコを狂人と描いているのか、と愕然とした。
思えばワタナベが阿美寮を訪れたときもペニスが大きい夢を見たとか、「私たち普通じゃないの」というセリフとかも、ただの狂人としての扱いだ。ではレイコは狂人であるべき必要があったのか?そうだとしてワタナベと性交をする意味があったのか?全くない!この部分だけでもこの映画が原作の上っ面をなぞっただけの駄作だとはっきりと言える。
直子の扱いがひどすぎる
阿美寮に入る前の、二人で東京をさ迷い歩くシーンはとても美しい。菊地凛子をキャスティングしたのもナイスとここまでは思った。しかしそれ以降がひどい。錯乱する場面をしつこく描き、神経質に草原を往復するシーンをわざわざ挿入し、おまけに自殺した姿まで曝した。阿美寮での直子とのシーンのBGMはほぼホラーテイスト。なんだろうこれは?単に好きになった人が精神を病み、死んでしまった、という話か?病んでなお美しい直子はこの監督には読み取れなかったのか?要するにレイコも直子も単に狂人扱いで、それを美しく描く必要はない、という事か?
この映画を評するのに「切ない」という言葉が使われているのを見ることがあるが、それは違う。この映画は「怖い」「キモイ」「ひどい」。切なさは人の心を揺さぶるものだが、本作は恐怖と嫌悪感を与えるのみである・・・思い出しただけでも気分が悪い。塩をまいて清めたくなるほどだ。
緑、何のために出てきたんだ?
本作では緑は普通の魅力的な女子として描かれているようだ。原作の図式は直子をひたすらに愛しているワタナベを現実世界に引き留めるのが緑なのだが、この映画ではワタナベの傷をなめてくれる親切な女性に過ぎない。好きになった女性が心を病んでつらいので緑という別の女性で心を慰めている、そしてそのうち病んでる女より元気な女がいいや、ごめんね直子、としか見えない。そうだとすればあまりにもひどすぎるしあまりにも悲しすぎる。
ワタナベは誰とでも寝るクズ男に描かれている
ワタナベに着目しよう。まず直子に対する愛情が薄い。並行して緑に惹かれている。永沢にリスペクトを持っていない。そしてなんだかよくわからないレイコと寝る。こんなひどい男がいるだろうか?
私は原作のラストのワタナベとレイコの性交は、直子というかけがえのない存在を失い、死の世界と隣り合わせの二人が、性交という人を受け入れる行為を経ることで社会に向き合っていく儀式、と理解している。
しかし、この映画は違う。精神を病んだ女の子を好きになったのは不幸だった、でも緑がいるからいいや、レイコも美人だし誘われてるから寝ておこう。くらいにしか見えない。私は原作のワタナベは物語のあとも痛みを抱えながらも生きていくと信じているが、この映画ではラストシーンの直後に死ぬようなキャラにしか見えない。直子を守りたい気持ちは伝わってこないし、緑への愛も、レイコへの親しみも感じない。ただ目の前にいる女と性交するだけのクズにしか見えない。どうやったらこんなひどい映画ができるのだろう。できることなら世界中の村上春樹ファンに土下座して謝ってほしい。
出来上がったモノを見てののしるだけなら誰でもできる、理解するためトラン監督の言葉を集めてみた
放映から時間もたっているのでどのくらい見つかるかと思ったが、彼の言葉はいくつも見つかった。その中でも許せないな、と思う記述をまず書く。
映画.comというweb上の記事でのインタビューだ。制作に当たって村上春樹とやり取りをした中で、村上が原作にないセリフを書き起こしてくれた、という前振りで彼が紹介するのは「人は18歳と19歳の間を行ったり来たりすればいいのよ」というシーンだという。
これを見て愕然とした。その文章ほとんどそのまま原作にある。原作ではワタナベの気持ちとして綴られているものが映画では直子のセルフになっているが、それを理解しているなら、「直子のセリフとして入れた方がいいと助言してくれた」だろう。原作にほれ込んで映画化を直接本人に打診した、と言っているがさらっと読んだだけなんじゃないのか?と怒鳴りたくなった。もちろんどんな作品でも一字一句完全に覚えている人間なんていない。しかし直子の誕生日にまつわるシーンは前半のキモでもあり、こんな種類のセリフがあった、くらいの記憶はあってしかるべきではないのか?彼は本当にこの小説を愛しているのか?
「ノルウェイの森と女たち」というインタビュー記事では同氏は「直子を救えなかった罪悪感が、レイコと性的な関係を結んで彼女を救うことで解かれ、緑に気持ちを伝えられるようになる」と語っている。
レイコを救うも何も映画ではレイコについてほとんど描写がない・・・やはり前述の「普通じゃないのよ」で狂人として描写しているくらいしかないように思う。直子を心配し抱きしめるシーンなどから悪い人ではないことは伝わってくるが、それであれば狂人のようなフリは不要ではないだろうか・・・
結局、この監督の目指しているものがわからない、ということが分かった。
もしかして魅力的な女性がたくさん出てくる美しい話、という解釈なのだろうか。それくらいにしか理解できないが、残念ながらこの映画は美しくない。ところどころ美しいシーンがあるだけのエロティックホラー映画だ。評価点の最低が1なので1を付けているが可能であればマイナス5くらいつけたいほどだ。
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