愛されているという幻想を棄てようとする壮絶さ
ケヴィンが何故あんなことをしたのか、誰にも分からないのかもしれない
これの映画を随分前に観た。何故ケヴィンが、あんなことをしたのか、最後まで分からなくて、消化不良気味だったのが、後に原作の小説があると知り、ここにならその答えがあるかと思い読んでみたら、やはりなかった。映画を観たときは、心の揺れや葛藤を描く手間を惜しんで、生まれたときからすでにケヴィンが化け物だったかのように安易に仕立てのではないかと思ったものの、原作もエヴァが亡き夫に手紙をつづっている形になっていて、結局のところ、推測や想像はできても、本当のところは分からず、その点、忠実に映画は作られていた。まあ、美少年を売りにしていたあたりは、商業的だったのだろう。小説を読んだ印象では、映画での彼の顔と重なることはなかった。
ともあれ、原作者のライオネルもあとがきで、ケヴィンが生まれつき悪魔的だったのか、母親の育て方が悪かったのか、読者の間で分かれる意見の、どれが正しいのか自分も分からないと言っている。ケヴィン自身も分からないと言っているくらいだから、この答えは見つけようがないのかもしれない。そして、本当に考えなければならないのは、答えより、ケヴィンが殺人、しかも父親と妹の殺しをも、成し遂げられた現実についてだ。
絶対にできるはずがないことを、したことで、絶対できないわけではないと、証明されてしまった。頼もしい父親だから、かわいい妹だからと、躊躇する思いが、クロスボウの引き金にかかる指を留められなかったわけだ。躊躇は、人の体を麻痺させる効果があるようで、実際、物理的に指を縛りつけることはできない。言ってしまえば、気持ち次第なわけで、たしかに親だから子だから血がつながっているから、という理由は人を躊躇させるのに十分だが、だからといって何故してはいけないのか、との問いの答えはない。もし、親でも酒乱だったり虐待したり、子でも犯罪を犯したり非行に走ったりして、そんな相手を好意的に思えなかったら、血が繋がっているからといって、なんで我慢しなければならないのだと、むしろ理不尽に思うだろう。そうやって釈然としなかったら、躊躇はしにくい。と、考えれば、親だから子だからとの抑止力は絶対的でなく、単純にひどい仕打を受けたのに対し復讐したがるのは当たり前のようにも思える。
親子間のパワーバランスは意外に拮抗している
なのに、親だから子だから殺せるはずがない、殺した人間は普通でなく、頭がいかれていると、考えてしまうのか。おそらく、親が子を恨むはずがないし、子が親を憎むがはずがなく、どんなことがあっても愛するものと信じたいからだ。とはいえ、必ずしもそうではないことが、この作品を読むと、よく分かる。不自由を強いる腹の中の子供を疎ましがる思い、自分をさし置いて、かまってもらえる子供への嫉妬、被害妄想にとりつかれ子供に抱く不当な疑いなど、エヴァは子供によって自分の人生が台無しにされ、また夫を捕られたとの、不満が大きい。とはいえ、エヴァが特殊なのでない。同じことを思ったとして、口にするのが憚れて黙っているか、自覚していないだけだ。根本的に子供を生み育てるのは、手間も時間もかかるし、その分自分を犠牲にしなければならない。と、考えたら、誰も生みたくなくなるから、子供を持つことは幸せだ、育てていくことは喜びだと、子供を生むことはいいことだとばかり、認識を社会で共有し出産をうながさせる。相反する感情が湧いても、社会認識に外れていることが不安になって、表にはだしにくく、言いかたを変えれば洗脳されているようなものだから、自覚するのも避けようとする。だた幸せだ喜びだというのに、その実感が持てないと、結局は不満になるだろう。だから幸せや喜びを覚えさせてくれることを、子供がしてくれるのを望む。他の子より容姿や能力が優れていることを誇りたいし、逆に劣っている子供になにかと頼りにされることで征服欲を満たされたく、また単純に懐いて「パパママ大好き」と言われ「パパママどこ行ったの」と泣かれたい。子供にすれば、不本意であっても、金をだし惜しみしたり、育児放棄されたりしないように、親を気持ちよくさせなければならない。養われている立場上、子供は言いなりになるしかならず、刃向かう余地がないように思えるが、そうでもない。
アメリカや日本などの、先進国では、嫌いだからとか、育てるのが嫌になったからといって、子供を捨てたり、放置したりはできない。警察に捕まる場合もあるし、なによりそんな親への世間の目は厳しい。子供が悪さをしたら、子供自身が咎められるのはもとより、親の顔が見てみたいものだと、親の責任が問われ、育て方を責められる。親がなにも悪いことをしなくても、共犯のように思われ、親子である以上そう見られることから逃れられないし、かといって縁を切ることもできない。「そんな悪い子はいらない、出ていけ」と脅されても、現実にはできないことに子供が気づけば、怖くはなく言いなりになる必要を感じなくなり、逆に恥をかかせるぞと、脅すことができる。とんでもないことをしでかして、お前も道連れにしてやると。
このように親子は互いに、相手の運命を握る立場にある。愛で保たれているはずの家庭は、
親が養っている分だけ求める要求に子供が応えたり、子が暴走しないよう親がその顔色を窺ったりして、成り立っている側面があり、またエヴァとケヴィンのように、互いの首にくくられている手綱の奪いあいをする場合もある。親子で主導権争いをするなんて、信じられないだろうし、本能的に子供を愛するはずの親が、育児放棄のカードをちらつかせて子供にプレッシャーをかけたり、自然に親を慕い敬うはずの子供が、親を困らせてほくそ笑むなんて、ありえないと、普通の人なら思うだろう。
親に愛されたい子供、子供に尊敬されたい親
そう疑わない典型的で、平凡な親がロバートだ。子供は親を馬鹿にはしないし、貶めようとするわけがないと思いこみ、そういうふうに見てとれるケヴィンの態度や表情を、おそらく見て見ぬふりをしている。自分が子供のころそうだったように、男の子として同じものに関心を示し、似た思考をするものと決めつけ、ケヴィンが嫌々合わせているのに、驚くほど気づかないのだ。もともと鈍感なせいもあるとはいえ、やはりロバートも親として、とくに変わっているわけというわけでないと思う。親でなく、子の立場ではあるが、自分も親のことを、見ているようで見ていなかったと、大人になって思い知らされたことがあるのだった。
自分が子供のころ、たいてい食卓には溢れんばかりの、料理を盛った皿が並べられていた。必ずご飯に味噌汁、おかずが二つ最低限あったように思う。ご飯を食べさせてもらえないより、いいように思えるものの、食べろ食べろとプレッシャーをかけられているようで、箸はすすまず、そのころは食事が美味しいと思ったことがなかった。自分のためを思って、多くの料理を作ってくれているのだろうから、食べたくないと思う自分が悪いのだと思い、そのくせ食事の前に菓子を馬鹿食いするなど、折角の料理を残さずに食べなければ、との思いとは矛盾することをしていた。親は子供を思って料理を作るものだと疑わなかったながらに、どこか納得していなかったのだろう。果たして、その勘のようなものは当たっていた。大人になってから母が、自身が子供だったころの話をしてくれ、痩せていたので母親に無理に食べ物を口につめこむようなことをされて、嫌だったと、言ったのだ。どうして、子供のころやられて嫌だったことを、自分の子供にもしたのかは、分からない。が、多くの料理を作った理由が、母の個人的なわだかまりや問題によるものだったのはたしかで、言わば怨念がこもったような料理に、食欲が湧かなかったのも当たり前だったわけだ。
これは一例で、子供のために、母がしたと思っていたことは、結構身勝手なものが多かったように今は思える。とはいえ、料理の件にしても、母の本音を知ったからといって、責める思いはなく、なんだかほっとしたのだった。自分のためにしてくれたことと思えば、してくれただけ負い目を抱いたり、拒絶するのにも罪悪感を覚えるが、母に思惑や下心があってのことなら、遠慮しないで嫌な顔ができるし、当時気づいたとして、食事を残したり、食べられないと訴えるなどの選択もしやすかったろう。
皮肉なことに、親は無償に子供を愛するものと思うがために、ひどい扱いをされても、望みに応えられないほうが悪いのだと子供は自分を責め、子供は無垢で親を尊敬するものと思いこむがために、騙されているのに気づかず小馬鹿にされる。厄介なのは親子それぞれ、そうやって苦しむことになっても、思いこみにしがみついて、程遠い現実を見ないようにすることだ。親に愛される子供、子供に尊敬される親でありたいと思うから。それらの存在価値を喉から手がでるほど欲しがって、そうでない現実でなく、都合のいい幻想を見つづけようとする。
一方でケヴィンは、身も蓋もない現実と向き合おうとしたのだと思う。だから母親に頑なまでに懐かなかったのは、無償に子供を愛する親という幻想をふりはらい、またエヴァに無垢で親を尊敬する子供という幻想を、抱かせないためだったのかもしれない。自分でも何故したのか分からないと言っているあたり、殺人については、分からないものを、今までのエヴァへの惨い仕打ちは、それが目的だった可能性がある。熱がでて体が弱ったときには、さすがに縋ったとはいえ、そんなケヴィンを見て、ふだんの反抗的態度を維持するのに相当なエネルギーを使っているのだろうと、エヴァが思ったように、目的を達するのにきっと全身全霊をこめていた。それくらいしないと、幻想を抱かせようとする、すさまじい誘惑には打ち勝てなかったのだと思う。
もし殺人を犯した理由があるとしたら、幻想をふりはらおうと必死になるあまり、見境がなくなったから、なのかもしれない。だとしたら、本当に怖いのは、ケヴィンでなく、殺人を犯すまでしないと、ふりはらえないと思いつめさせた、幻想の魔の手なのではないか。そう考えると、親に愛される子供でありたいとの、ありふれたはずの欲求が、呪いのように思えたのだった。
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