冷徹な人生の不公平を描く
西川美和監督の最高傑作
2006年公開作品。初めてこの作品を見た時は、興奮しました、何から何まで好きすぎて。もうそれから10年の歳月が過ぎましたが、いまだに「ゆれる」は私の好きな邦画のトップ5に入る作品です。
監督の西川美和氏は、この作品が長編2作目でしたけれど、この後も「ディア・ドクター」と「夢売るふたり」という怖いすごい映画を作っています。「ゆれる」 を見て遡って「蛇イチゴ」も見ましたけど、これまた怖いすごい作品で、処女作から今に至るまで、おもねずぶれず、じっくりとしたペースで質の高い作品を生み出し続けていて、優秀な監督だと思います。新作の「永い言い訳」も2016年の秋公開のようですが、楽しみでなりません。
今は邦画、洋画に関わらず、漫画や小説を原作にしたもの、あるいは本当にあった話を脚色したものばかりです。その中で西川作品は完全なオリジナル脚本の作品を毎回届けてくれます。ここ数年、邦画では内田けんじと並んで、いちばん新作を心待ちにしている監督のひとりです。
西川監督は文筆家としても優れていて、エッセイや小説も多く、新作の「永い言い訳」は直木賞候補にもなっています。近代日本文学に造詣が深く、夏目漱石や太宰治を少し彷彿とさせる、繊細な心の機微を捉えた、美しく気骨のある文章を書きます。少し古い昭和の時代の日本の空気感や、屈託のある陰湿さを持った人間のありようや、湿気っぽく瑞々しい日本の風景のたたずまいのようなものは、文章のみならず彼女の映画の中でも通底するトーンとしてあり、最近の多くの「軽い」作品たちとは一線を画する西川作品の凄みを下支えしていると感じます。
優れた脚本家でもある監督ゆえの完成度
「ゆれる」は、ある種ステレオタイプに対照的に設定されたふたりの主人公がおり、ひとつの殺人事件を通して兄弟であるところの彼らの心理が複雑に絡み合い、押し流されてゆく過程をじりじりとするようなやりとりを通してじっくりと描いた作品です。
作中何度も、あっと小さく声を上げたくなるような、意外な展開が見られます。それは時に不合理にさえ思えるのだけれど、少しも不自然ではないのです。この作品に限らず、良い映像作品あるいは良い役者について、今目の前で見えている人物、その存在の向こうに、彼/彼女が生きて来た人生、ストーリーが必ず透けて見えているということがあります。(逆に言うと、技術的にいかに上手く演じ、感情がこもっていようが、目の前に見えている人物だけで、時間のスパンを感じさせないのなら、人の心はさほど動かないものではないでしょうか。)
役者の力でストーリーを構築し、そこに到達している場合もあるでしょうが、やはり脚本の力と監督の演出力というのが最も大きく左右する要素だと思います。「ゆれる」においては、脇役に至るまで、登場人物たちがこれまでどんな人生を歩んでここに流れ着いたのか、いかにしてこういう価値観の人であるのかということが、彼らの人生の重みのようなものが、ひしひしと見る者に迫るように感じられます。だから、整合性のようなものとは関わり無く、違和感で気を逸らされることもないし、むしろ「この選択、この言動しかないのであろう」と感じられるのだと思うのです。
それは、やはり脚本が素晴らしいからだろうし、本と監督が同じ人だから演出においてもぶれがないからだろうし、ひとつの明確なビジョンに向かって迷い無く作り上げられたことからくる完成度の高さなのだろうと思います。こういうことは、別にこの作品に限ったことでは全然ないのですが、先ほども書いたように昨今本当にオリジナル脚本の作品が少ないので、本の良さが全面に出ている作品に出会うと、改めてこういう感想を持ちます。
さらに、西川美和監督は当時まだ年若い女性で、この映画のオーディションの際にキャストのひとりの真木よう子から、ライバルの女優と勘違いされ敵視されたという笑い話もあったとか。それでいて、これだけの作品をまとめ上げる統率力があるというのは・・・。映画監督って人間力も非常に問われると思いますので、色んな意味でさぞすごい人なんだろうな、と想像してしまいます。
冷徹な人生の不公平、その落とし穴の恐ろしさ
それにつけても、この作品でのふたりの主演俳優、香川照之とオダギリジョーは素晴らしかったです。特に香川照之の卑屈と怒りと人としての優しさ、転じて倒錯した開き直りという引き裂かれた人物の表現は、得体の知れない人間の怖さの中に人間の本質のようなものが現れていて、戦慄するようでした。
ほとんどの人が、どちらかといえば兄・猛だと思うのです。誰もが弟・稔のように才能と外見と運に恵まれて、しがらみもなく自由に身勝手に生きられる訳ではない。ほとんどの平凡な人はしがらみにまみれ、その中で「出来る限り善く生きよう」と、地味で冴えない日常をこつこつと積み上げて生きて行く。
猛にとって、真木よう子演じる思いを寄せる従業員の女性智恵子は、そうしてしのんできた日々の中で、彼が手にしたかったささやかな願いでした。大した女性ではなかったかもしれないけれど、彼にとってはよすがのような存在だったとも言えると思います。智恵子は、突然法事で都会からふらっと帰って来た稔に簡単に身を任せ、しかし稔にとっては智恵子のことなど気まぐれでしかなく、簡単に捨てられてしまう。
弟が気ままに生きているツケを猛は一人で引き受け田舎でしがらみにまみれて生きており、弟はそんな兄を智恵子という存在を通じて「間接的に」幾重にも軽んじ、踏みつけにした。その事が、結果的に「間接的に」兄の人生を大きく狂わせることになる。こういう監督の語りの手法はいつも見事だと思います。常に「仄めかす」かたちで真実は語られる。
厳然とした人生の不公平。目もくらむような深い谷底を覗き込んだような感覚に襲われます。そして、自分もいつ足を踏み外し、その暗闇に吸い込まれてしまうやもしれないという、日常と隣り合わせの恐怖を覚えます。そこには簡単に断じられる善も悪もありません。
ラストシーン、兄が出所した、という話を聞きつけ、弟は迎えに駆けつけます。やっと道の向こう側に見つけた兄に向かって、稔は「兄ちゃん、兄ちゃん!」と走りながら叫ぶ。叫びながら泣いている。ごめん、どうか許してと泣いている。その弟の姿を認めた兄は一瞬、微笑んだのか嗤ったのか。二人の間を唐突にバスが遮り、作品は幕を降ろす。見る者に想像の余地を与える、忘れ難い素晴らしいラストシーンだと思います。
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