ノルウェイの森を「生と死と性」というテーマで読み解く
目次
その日僕らはウイスキーを飲みながら「ノルウェイの森」について語っていた。
僕らは酒を飲んでいれば実によく小説や漫画について語り合った。そしてその日は村上春樹のノルウェイの森だったのだ。
A「クライマックスのレイコさんとの性交って話として必要だと思う?」
僕「『寂しくないお葬式』は絶対必要だけど、そこはどうだろうね・・・」
そもそも性に対する記述が多い小説だからね、などと言いつつ話をしていたが、色々な登場人物の生や死を分析していくうちに一つの仮説にたどり着いた。
クライマックスシーンでワタナベとレイコの性交がかかれているが、これにはどんな意味があるか?
そしてその説を当てはめる事で、他の登場人物たちについても理解が深まるように思う。
なお、以後説明する中で1人だけこの説が当てはまるのか判断できない人物がいる。
それについても、この説にはまだ検討の余地があり完成でない、という明記しておく。
考察の概要:この小説は「性と死」ではなく「性と死と性」について書かれている
この小説では何人かの登場人物が、自ら命を絶つ。
そのため「死」について語られる場面も何度もある。
この自ら死に至る人々は何故「生」の側に居続けることが出来ないのか、そして苦しみながらも「生」にとどまれる人々は何を持っているのか。
作中に色々な形で表される「生」「性交」を掘り下げる事でそれが理解できる。
この小説の中で「性」は「生命力の現れ」あるいは「社会との関係性」として書かれている。
以降、自ら命を絶った人たち、そうならないであろう人たち、そしてそのはざまに漂う主人公とヒロインたちを具体的に考察する。
死の成長を止められなかった人たち キズキ、ハツミ、直子の姉、突撃隊
人物に触れる前に、「死」をどう描いているかを再確認しておこう。
ワタナベが学んだ事として挙げられているが、その後変化はしていくものの否定はされていないのでこの考察上はこれを通念とする。
・死は生の対極ではなく、生の中に含まれている交通事故などは別として自ら死に至る場合、それはある日突然やってくるのではない。もともと全ての人の中に組み込まれたもので、その成長を抑えることが出来ない人が自ら命を絶つのだ。
・キズキの場合キズキについて書かれているのはワタナベや直子意外はあまり交友が無い事、愛する直子と性の充足を望むが、不可能だったことなどだ。二人の成長の危うさは作中で直子が何度も語っているので考察の余地はない。生命力や社会への対応力がほとんど描かれていないため、この作品中で死の側にいる人のマスターピースと考えてよいだろう。
・ハツミの場合
文中で生きて動いているハツミの中に死は全く見いだせない。
しかし、愛する永沢と離れ、2年後別の男と結婚し、さらに2年後、命を絶つのだが、この4年の中に何があったのだろう?
作中書かれている性格から、永沢への一途な愛が捨てられなかった事は想像がつく。また、別の男と結婚したとはいえ、その新しい愛情に器用に適応することもできなかったのも、永沢の女性遍歴や、不特定の女性と関係を持つワタナベを叱責していたことを考えると、当然かもしれない。彼女の場合、永沢への愛が深かっただけにそれ以外を受け入れられない傾向が強かったのだろう。これを要約すると、「生命の象徴」である愛情ある性、「社会との関係性」を受け入れる性のどちらも得られず、内在する死の肥大化に対抗できなかった、と考えられ、本考察の性の欠如で生から死に至るモデルケースと言える。
・直子の姉の場合
彼女についてはわずかな直子の語りがあるのみで、その死の時点で直子が幼女だったこともあってか、非常に記述が少ない。それゆえこの考察が当てはまるのかどうか、不明瞭としか言いようがない。冒頭でこの考察が完成とは言えないのはこの部分のためである。
・突撃隊の場合
彼については死んだという記述は一切ないが、社会とのつながりが保ちにくい人物であること、一度デートしたエピソードがあったが、愛情を伴う性を理解できていなさそうだった事などから、この考察に当てはめて考えると死んでいる可能性は否定できない。夏休みが終わっても帰ってこない彼の事をワタナベが寮長に尋ねても何の情報も得られなかったのも、自殺であれば理解できる対応であったといえる。
説として極端と言われれば、否定はできないが、突然の退場が説明できる、という意味で記載した。
※作中で緑の父も死んでいるが、自ら命を絶ったわけではないので、この考察には当てはまらない
生の代表、永沢と緑
この二人はタイプは違えど生の代表であり、それぞれ性について積極的に行動し、結果的に社会との繋がりを保っている。
それぞれに苦しみ、それぞれの地獄を生きているが、以下の方法で死の成長に立ち向かっている。
永沢は死の成長をはぐくむような弱さを自らの中に認めず、自分の成長システムを構築し強化していくことで、死に打ち勝って行く。
緑は内在する弱さを見せつつも、それと折り合いを付けて生きていく方法を知っている。
それは時にワタナベに語る空想であったり、常に周囲にいる友人であったりもするだろう。
この二人についてはもう一つ語らなけれなばならない。
常にワタナベに「性」を提供することで現実という生につなぎとめる役割をしていることだ。
永沢が提供する性は不特定多数の女性で、名もなく深い愛情もないものの、ワタナベが「現実と折り合っていく」ことの入り口となっている。
一方緑は、想像の世界での性を提供し、直子に関連した時、現実に馴染めなくなっているワタナベを現実世界に引きとめている。
そして振り返ってみた時に、キズキや直子の側にはこのような人物が存在しない。
このような知り合いを作れなかったことが彼らの弱さなのだろうか?
しかし、ワタナベの場合、永沢も緑もワタナベの側から求めて作った交友関係ではない。キズキや直子には周囲の干渉を寄せ付けない、殻のようなものがあったのかもしれない。
生と死のハザマにいる危うい存在、直子
直子はおおむね性と離れており、17歳から21歳までの大部分は死が彼女の周りに存在していると言える。
直子に性が訪れたのは一度切り、キズキの死から時間を経て、場所も離れ、生の側にいるワタナベの存在が増した時のみだ。そして、暖かい雰囲気に包まれた阿美寮でも同様だったのだ
ワタナベが阿美寮を訪れた時も二人は性交を試しているが不可能だった。では彼女はワタナベの勧めに沿って阿美寮を出て二人で暮らしていれば生の側に属することか可能だったのだろうか?
そこは描かれていないので誰にも分からない。
しかしワタナベは何とか回復していける、と信じていたし、それが危うくなった時も直子から離れることは全く考えていない。
直子は将来についてほとんど語っていないが、ワタナベに迷惑をかけるだけの生き方はできない、と考えているようでもある。
とはいえ、回復にワタナベの存在が必要と感じており、またワタナベに感謝と好意を持っていることは間違いない。
しかし、ワタナベ自身はワタナベに対する永沢や緑のように直子を生の世界にとどめておくことは出来なかった。
彼は純粋な愛を伴う性は直子に提供できたが、社会との関係性という部分については、「押し付けない」という形で提供できなかったと思われる。
緑が語っている「押し付けた、押し付けられた」という関係こそが社会である。
ワタナベは押し付けられる事は許容するが押し付けることはしない。
その意味では直子と社会をつなぐリンクとしてはワタナベは不完全だったのだ。
可能性の話であるが、もし直子がもう少し生をながらえていたら、緑を選んだが直子も見捨てない、という選択をしたワタナベであれば、より社会に近く、直子を回復させる事ができたかもしれない。
レイコは最終シーンで回復し生の世界に戻ってきた
レイコは直子の死後、連絡が取れないワタナベを心配し、「生きて幸せになれ」と伝えるため阿美寮を出てきた。
直子のお葬式を二人でやり直し、そしてワタナベとの性交のシーンがある。
冒頭でも話題にしたが、このシーンは作品として必要なのだろうか?
性交を恋愛の一つの形としか考えられない場合、直子の事を思うと二人の行動は醜悪にすら映るかもしれない。
しかし、ここまで考察してこそ言い切れるが、これはレイコにとってもワタナベにとっても必要だったのだ。
無論快楽ではない。直子の死後放浪し、時には死者とも話していたワタナベは物理的に東京に帰ってきたとはいえ、精神的はまだ死者とのつながりが強かったに違いない。
そして記述はされていないが、直子の死はレイコにも大きなダメージを与えていたはずなのだ。
このシーンから約1年前、ワタナベが直子を求めて初めて阿美寮に来たとき、レイコは不完全な自分を知って助け合う事が大事、と言っている。
また、相手に対して心を開くことによって「回復する」という事も言っている。
その会話はまさにこの場面への伏線であり、二人は「不完全な自己を認めつつ」、お互いを思い合い、「助け合い」「心を開き」、そして「回復」したのだ。
この儀式ともいえる行動を経て、2人は初めて生の世界に帰ってきた。
レイコ自身は旭川での生活に不安があるようだが、回復した彼女なら現実に折り合いを生きていくだろう。
そしてワタナベは?
最終シーンで緑に連絡を取りつつも自分がどこにいるのかがわからない、という場面で次はワタナベが病んで死に向かっていくのか、と考えられる方もおられると思うが、私はそれは否定する。
あのシーンは、生きる決意をしたワタナベであるが、それでも尚、死は常に生に含まれているのだ、と読者に再認識させている、と解釈している。
彼が直接死に向かっていない理由はごく簡単で、本作品の第1章では37歳になって生きているワタナベが登場するからだ。
そこで彼は悲しいけれど直子の記憶が遠ざかり続けていることを自覚している。
それはつまり彼がこの儀式のあと、苦しくても現実に向かい合って生き続けた証だ、と信じる
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