こころを読み直す
最近漱石の作品を読み直すことにしている。学生時代とは違う印象を受けてなかなか楽しいものだ。もう一度読んでみて気付いたことがある。この小説の主人公は「わたし」でもなく「先生」でもなく「K」でもない。題名の示す通り、人間のこころそのものなのである。作品の中で「わたし」も「先生」も苗字すらでてこないのは人間の持つ汚い心を中心に据えるためなのかと勝手に考えてしまった。
つまらない事で心が揺れ動く様を作者は鋭い観察力でとらえている。「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました。Kの室は空虚うでしたけれども、火鉢には継ぎたての火が暖かそうに燃えてゐました。私も冷たい手を早く赤い炭の上に翳そうと思って、急いで自分の室の仕切を開けました。すると私の火鉢には冷たい灰が白く残ってゐる丈で、火種さへ尽きてゐるのです。私は急に不愉快になりました。」こういう経験をしたことがある人は多いのではないかと思う。自分への愛情がほかの者と比べて少ないと知った時の何とも言えない淋しさ。作者の感受性の強さには驚かされるばかりであるが、これは漱石自身の経験により磨かれていったのではないだろうか。漱石は幼少期に2度も養子に出されるという気の毒な過去の持ち主である。漱石は「自分は愛されていない。」と感じることに敏感だったのだ。
人を妬み、羨ましがるこころは誰にでもある。漱石にもあったと思う。でもその汚い心の持ち主は皆悪人なのであろうか?先生はKの気持ちを知りながらお嬢さんとの結婚話を進めてしまった。もし、Kがお嬢さんではない他の女性が好きだったら先生はお嬢さんにプロポーズしただろうか、と思う。Kがお嬢さんを欲しがっているから、先生はお嬢さんが欲しくなったのではないかと考えてしまう。自分の話で恐縮であるが、私の家にはガラクタが沢山ある。はっきり言ってどうでも良いものばかりであるが、人から「ちょうだい。」と言われると急に惜しくなる。どうでもいいものが「ちょうだい。」と言われることにより自分の中で価値が出てくるのだ。もし、私が先生の立場だったらどうなっていたか考えてみた。Kが死ぬと私の中のお嬢さんへの思いは萎んでしまった。Kが欲しがっていたから欲しかっただけなのだ。先生は優しいからKの死後お嬢さんと結婚し、自殺したあともお嬢さん(妻)を守ろうとしている。この小説を読んで読者である私は先生より汚い心を持っていることに気付いた。「汚い心を消すことは出来ない。死ぬよりほかないのだ。」と作者は言いたいようである。先生を小説の中で自殺させた漱石のメッセージとは何だろうか。漱石は読者に自殺をすすめているわけでは決してない。自分で自分を罰するという生き方もあると言っているのかもしれない。そして、その考えが「明治」の考えであり、漱石自身が「懐かしいが古臭くて通用しない」ということに気づいていることを感じさせるラストシーンであった。- あなたも感想を書いてみませんか?
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