遥かな故郷と、そこで送った哀歓に満ちた少年期を追憶する念を深く込めて描いた「フェリーニのアマルコルド」
このフェデリコ・フェリーニ監督の「フェリーニのアマルコルド」は、「フェリーニのローマ」の姉妹編とも言えるもので、彼の青年期は「ローマ」に、そしてその少年期はこの「アマルコルド」によって、私小説的に描かれていると思う。
この「アマルコルド」とは、フェリーニの故郷である、北イタリアのアドリア海に面したリミニ地方の、今は死語になっている方言で、"私は覚えている"という意味との事だ。
死語になった、この言葉を敢えてタイトルに使うところに、もう戻る事のない、遥かな故郷と、そこで送った哀歓に満ちた少年期を追憶する念が、深く込められているのだと思う。
自分自身と、その生きてきた社会の歴史とは、自分の記憶でしか確かめ得ないものであるというのに、その記憶が、幻想と交錯してしまう事の不確かさと断続性とを、むしろ情緒の面で捉え、ストリーよりは、映像的に描こうとしている。
画面の一つ一つが、スケッチ風に非連続的に展開されるが、白いポプラの種が、春一番の風に舞う、最初のシーンから、浜辺の結婚の宴が果てて、人々が散ってゆく最後のシーンまで、どの場面をとっても、その構図と色彩とは実に絵画的だ。
映画界に入る前には、似顔描きや挿絵画家で食を得ていたという彼の経歴は、映像的な感覚に、天賦の才能を持っている事をうかがわせる。
フェリーニは、幼くして母を失い、父は貧しい行商人で、家にいる事はほとんどなかったという。
しかし、この映画では、彼の分身であるチッタ少年には、優しい母と、いつも家で口うるさい厳しい父とがいる。
1935年、15歳のチッタが経験した、春夏秋冬の挿話に満ちた一年は、また別れの一年であった。
母の病と死、片思いの年上の美女の結婚、学校生活の終わり、そしてそれは、少年期からの別れの年でもあったのだ。
もう繰り返す事のできない、楽しく物悲しい少年期の思い出は、言葉よりは映像でしか描きようがないように思う。
とにかく、この作品は静かで、侘しく、快い後味があり、後になればなるほど、胸に染みてくる、そんな映画だと思う。
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