大きな出来事も小さな出来事も分け隔てなく、ありのままに、あくまでも静かに淡々と語られていく物語
1968年8月のじっとりとした暑さの中で生まれたゴーゴリ・ガングリー。両親は、ゴーゴリが生まれた時は、まだマサチューセッツ工科大学の大学院に籍のあった父のアショケと、何も分からないまま、夫のいるアメリカに渡ることになった母のアシマ。
アシマの祖母が名前を決めてくれるはずだったが、出したはずの郵便は届かず、2人は生まれてきた子の名前に困ってしまいます。しかしそんな時、アショケの頭の中に浮かんできたのは、まだベンガル工科大の学生だったアショケが巻き込まれた列車事故の記憶。
瓦礫の中に埋まってしまったアショケを助けてくれたのは、ロシアの文豪ゴーゴリの本だったのです。子供はゴーゴリと名づけられることに。そしてアメリカでの生活にまだ馴れていなかった2人も、アメリカのベンガル人の交流によって徐々にその世界を広げ、ゴーゴリが小学校に上がる年にはニキルという正式名称も付けられます。
前作の「停電の夜に」と同じように、大きな出来事も小さな出来事も分け隔てなく、ありのままに、あくまでも静かに淡々と語られていきます。文章も現在形がいくつも並んで一見単調なのですが、しかし、これが意外なパワーを秘めているように感じました。
この中で特に印象に残ったのは、2つの世代間の意識の差。両親の世代にとってはアメリカは生活の場ではあっても、あくまでも異国であり、本当の故郷はインドでしかあり得ないのですが、子供たちの世代にとっては、インドは既に異国。アメリカこそが故郷なのです。しかしそのどちらの国からも、彼らが本質的な意味で受け入れられることは最早ありません。
アメリカにいても、その容貌からインド人だということがすぐに分かりますし、一度インドを出てしまった彼らにとって、インド人の容貌を持ってはいても、再び溶け込もうとすることは意外と困難なこと。
しかも両親が大切にしているインドの親戚や家族、そして民族的風習も、子供たちにとっては価値観の相違であり、反発の種であるだけ。もちろんどのような国のどのような親子にもそういった世代のギャップは存在すると思いますが、アメリカとインドというまるで違う国を背負う彼らの姿は、殊さらに対照的となっているように思います。
主人公はあくまでもゴーゴリ。彼が自分の名前を通して、自分自身とそのアイデンティティについて考えていく物語。しかし主人公は、ゴーゴリでありながらも、その両親、アショケとアシマ、そして妹のソニアことソナリ、ゴーゴリの人生に深く関わってくるモウシュミまでが、丹念に描かれ、まるで大河小説を読んでいるような印象の作品でした。
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