ネコが起こした奇跡!人間と動物そして神をつなぐ愛の物語 - トマシーナの感想

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トマシーナ

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ネコが起こした奇跡!人間と動物そして神をつなぐ愛の物語

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文章力
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ストーリー
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キャラクター
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設定
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演出
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目次

ネコ好き作家が書く「ジェニィ」を引き継ぐ物語

ポール・ギャリコは小説を書くようになる前はスポーツ記者として名を馳せたニューヨーク出身の作家で、優れた作品を多く残している。ネコを愛しネコと生活をともにしたことで知られ、作品の中にネコが出てくることも多い。

「ジェニィ」はネコに姿を変えた少年とジェニィというネコの冒険を描くギャリコの傑作ファンタジーだが、ジェニィは本作の中ではトマシーナの大叔母として名が挙げられている。この作品の舞台はロンドンで「トマシーナ」と直接的なつながりはないが、トマシーナはジェニィの気品と美しい姿形を引き継いでいると自称しており、「ジェニィ」を読んだことのある読者が作品に入りこんでいきやすいように書かれている。

本作は1963年に「トマシーナの3つの生命」というタイトルで映画化されている。テレビで放送されていたこの映画を見た人によると、原作と同じくネコが主人公でナレーションも担当、トマシーナの名前が織り込まれた主題歌まであったとのことだが、DVD化などはされておらず、現在は残念ながら観ることができない。
  

スコットランドと古代エジプトのつながり

動物が物語の語り手となる話は世界中にあり、日本でもネコが語り手となる「吾輩は猫である」は、読んだことがあるかは別にして、そのタイトルはあまりにも有名だ。 しかし「トマシーナ」は語り手であるトマシーナが、物語がまだいくらも進まないうちに死んでしまう。正確には、治る見込みのない病と診断され、獣医師である飼い主の少女の父親に殺処分されてしまうのだ。 トマシーナは亡霊となってこのお話の語りを続けるのかと思いきや、新たな語り手として古代エジプトの猫の女神、バスト・ラーを名乗るネコが現れる。

なぜスコットランドに古代エジプトの神の魂を受け継ぐネコが現れるのか、日本人からするといく分唐突にも思われるが、歴史的経緯を鑑みると、あながち全くつながりがないわけではない。

例えば子どもたちが行ったトマシーナの葬儀で、メアリ・ルーの友人の一人がバグパイプを演奏するが、このスコットランドの伝統的な楽器の起源は古代エジプトにあると言われている。

物語の出だしにもこれにつながる伏線が張られている。トマシーナが自分のルーツはエジプトにあり、かつて先祖は古代エジプトで神として崇められていた、と語るのである。

またポール・ギャリコが生きた時代、イギリスには「オンム・セティ」と呼ばれた考古学者の女性がいたが、彼女は古代エジプトの女神官でセティ1世の愛人であったという前世の記憶を持っていたとされている。 彼女が4歳の時に階段から落ちて仮死状態になり、その後九死に一生を得たときに前世の記憶を思い出したと言う経緯も、トマシーナの物語に相通じるものがある。 アメリカ人であるが執筆はイギリスで行っていたというポール・ギャリコが、同時代を生きたこの女性のことを耳にした可能性は高いと思われる。舞台をスコットランドに移し、古代エジプトの記憶を持つ女性の実話から着想を得て、女神バスト・ラーの記憶を持つネコを中盤のストーリーテラーとして登場させたのではないだろうか。

神に心を閉ざした人間が神への信仰を取り戻すまで

この話の中では様々な愛の形が語られるが、中でも重要な位置を占めているのは人の神への愛、すなわち信仰についてである。 様々な経緯から無神論者となったマクデューイには、ペディと言う神父の友人がいるが、彼は何とかマクデューイの閉ざされた心を開き、彼を信仰の道へと導こうとする。

マクデューイとペディの間で交わされる信仰についての議論は、特定の宗教を持たない日本人からすると、実態のないものについて論じる空論に思われるだろう。だが信じる神を持つのが当たり前の世界で生まれ育った彼らにしてみると、神を信じないというのは大きな罪を犯したに等しいことなのかもしれない。

頑なに神を拒むマクデューイだが、娘が自分と口をきいてくれなくなったいらだち、また診療所に足を運ぶ人が減ったことを「赤毛の魔女」のせいと決めつけ、なかば八つ当たりの体で気が触れていると噂される峡谷に一人住む女性に会いに行く。

ローリが噂されるような魔女などではなく、自らの信念と信仰を元にひっそりと清らかな生活を送っている女性であると既に知っている読者は、ローリがマクデューイに傷つけられるのではないかと不安に感じながら読み進めるが、ローリの純粋さに圧倒され考えていた文句の一つも言えないマクデューイのこれまでにない様にニヤリとさせられる。

ローリと出会った時点でマクデューイは既に信仰への道を踏み出しており、ペディ神父も敏感にそのことを感じとる。そしてローリをメアリ・ルーと引き合わせれば、メアリ・ルーも絶望の淵から引き上げられるのではないかと誰もが予想するが、両者をなかなか出会わせないのがギャリコのうまいところ。最後の最後、クライマックスに登場人物が集結し、全ての符号が結び付けられる息をつかせぬ展開は圧巻。

果たして神通力はあったのか?千を超える生を生きたネコが降臨した理由

物語は読者の心をつかみその展開を期待しながら読み進んでいける一方、バスト・ラーの魂を宿したタリタは実際に神の力を持っていたのか?という疑問が残る。

タリタはローリの飼い猫たちと初めて対面したとき、彼らの無礼な振る舞いに怒り神の力をもって罰を下そうとするが、神のしもべたちは降臨せず、先住ネコたちの嘲笑を買う。

女神バスト・ラーの存在を信じるものがいないと、その力を発動することもできないというのがタリタの言い分であるが、彼女の行動はただのネコそのもの。本当に神なのか?という疑問が湧く。

終盤、偶然トマシーナの墓を目にし、ずっと目を背けていた自らの罪に気づき、「神よ、お救いください」と捨てたはずの神にすがるマクデューイ。その姿を目にしたタリタは、自分に対して捧げられた祈りを勘違いし、神の力を取り戻したと思い込む。

その神通力で起こしたとする嵐は、クライマックスを盛り上げはしたが、記憶を取り戻したトマシーナがメアリ・ルーのもとに駆け付けるのを困難にするという、余計な結果を生んだだけであった。

おまけに自らの力で呼んだ(とタリタは思っている)嵐の激しさに怖れおののき、隠れる場所を探す始末。客観的に見ると、タリタに神の力はなかった、ということになるだろう。

神の力を持たないバスト・ラーの魂が、なぜトマシーナの体に宿ったのか。それはトマシーナに流れる古代エジプトのネコを祖先に持つという血が呼び求めたものなのかもしれない。仮死状態からそのまま死に至ったかもしれない子孫を救うために、千の生を生きたバスト・ラーの魂は一時的にトマシーナの体に入り込み、時期を見てその体から去ったのだ。そう考えると、神の力とは無礼者たちに天罰を与えたり嵐を呼んだりする力でなく、奇跡を起こす力であったのではないだろうか。

ローリと「スノーグース」ラヤダーの共通点と異なる結末

ポール・ギャリコの代表作と言えば映画化された「ポセイドン」か、二世代に渡って読み継がれている「スノーグース」となるだろうが、本作は「スノーグース」の流れを組む作品と考えてよいだろう。

特に顕著なのが「スノーグース」の主人公ラヤダーとローリの共通点だ。ラヤダーはその醜い容姿から人との接触を避けて世捨て人同然に大沼のほとりに住み、野生の鳥たちを友として暮らしているが、これは人里離れた峡谷に住んで野生の動物にのみ愛情を注ぐローリの環境とよく似ている。

「スノーグース」の美しくも悲しい結末とは違い、ローリはマクデューイへの愛に目覚め、彼と結婚して病から回復したメアリ・ルーのよき母となる。文句のつけようのないハッピー・エンドだが、一抹の不安が残る。それは、その繊細さゆえに俗世を離れ野生動物を友とし、時には天使の羽ばたきさえも聞いたローリが、峡谷を出てやっていけるのだろうかという懸念だ。

だが、古代エジプトの神とあがめられた祖先の魂を宿したことのあるトマシーナがそばについている。心配することはないのかもしれない。トマシーナはタリタであったときには、ローリをよき友とし、彼女を迫りくる災厄から守ろうとしていた。きっとトマシーナに戻ってからも、メアリ・ルーとともにローリも守るべき家族として受け入れてくれるだろう。

だが俗世に降りたローリは、もう天使の羽ばたきや小人のささやきを聞くことはないのではないだろうか。少し寂しい気もするが、よき信徒となったマクデューイがローリの支えになるのであれば、それらはもうローリが感じ取る必要のないものなのだろう。

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