シーンで読み解くチャーリーという主人公の女友達とその幸せ
目次
登場シーンで若い頃から相当ちやほやされていたことがわかる
チャーリーは自分が暇だからって、主人公が朝出かける準備をしていることをわかっていながら電話をずっとコールし続けている。
そのあとの主人公の「こんな早い時間に電話をかけてくるのは君くらいだよ」という嫌味もどこ吹く風の「そんなに早い時間だったかしら」の返しもお手の物で、
チャーリーの人生でこの手のやりとりが何万回も行われてきただろうと推測される。
そうでなければ、そもそも忙しい時間帯に緊急でもない電話を掛けられないし、ましてやベッドの上であぐらをかきながらタバコを吸うという超リラックス状態からの長コールなんてできない。
そして、電話を切った後にうまそうにタバコを吸うところはそれだけで、「やっぱり私のこと好きなのね、やっぱり私っていい女なんだわ」という心の声が聞こえてくる。
さすがジュリアン・ムーア、さすがアカデミー賞女優。
ただの確認の電話をも駆け引きのひとつとして利用
次の主人公からの電話には、すぐ目の前に電話があるにも関わらず優劣をはっきり示すかのように3コールなってから取るチャーリー。
たっぷり化粧に時間をかけて、アイラインも一本一本丁寧に描くほど気合がはいっているからこそ必要な、すぐに電話に出ない手法で、チャーリーが主人公にガッついている自分に言い聞かせる意味も含まれているようにみえる。
主人公に「本が終わりそうだったからと」教養ありますアピールをするあたりは何ともかわいらしいのだが、残念ながら主人公は気にもとめていない。
チャーリーは主人公が気にもとめてないことを気にもとめてないので、肩の揺らしながらハミング。そのあとの「Beautiful」の言葉は、拡大鏡に映る目の下や鼻の下のシワを払拭するかのようだ。
主人公にとっては完璧な死への決戦の夜なのだが、チャーリーにとっては残りの人生をより楽しく生きるための決戦の夜へ向けて自らを鼓舞している。
テンションぶちあがりからの完全な失恋
二人きりの夜を楽しむためにいつもは夜遅くまでいるであろう家政婦を帰し、料理を作ったチャーリー。しかし、この料理についてはチャーリーが本当に作ったかどうか疑問が残る。なぜなら食事のシーンで主人公はうまいともまずいとも言っていないからだ。チャーリーが初メニューに挑戦したと言ったことに対し、「初料理だろ」というやりとりがあったのに、料理のコメントのシーンがないとなると実際に作ったかどうかは重要ではない=家政婦が作ったとも考えられる。
それはさておき、テンションぶちあがりのチャーリーはチャーリーなりの正攻法で主人公を落としにかかるが、その過程で主人公がゲイじゃなかったとしても、チャーリーがいかに恋人として主人公と気が合わないことがわかる。
とにかく主人公が触れられたくない部分に一番触れられたくない方法でガンガン触れていくのだ。その最たる例が「ジムとは本物の関係じゃなかったでしょ」だが、その前の食事のシーンで主人公が小指にはめた母親の結婚指輪をチャーリーがなでてしまう。この時の主人公の気まずさと嫌がり方はしびれるものがある。
チャーリーが主人公を好きな気持ちは間違いないが、主人公のことをそこまでちゃんと見ていないのだ。これは主人公だけでなく、彼女は自分が中心でいたいが最優先だから、元夫とも子供ともあまりうまくいっていないといえる。
それに気づいていないチャーリーは、若いころの状況に近づけばまた楽しく暮らせると思っている。その思い込みな希望にかけて主人公の帰り際まで肯定的な返事を引き出そうと頑張る。しかし、あっけなくその扉は文字通り閉ざされてしまう。
チャーリーは主人公の恋人としては不向きだが、友人としてはなんとも愉快な人間であるのことがわかるのは「ジムとは本物の関係じゃなかったでしょ」という絶交されかねないことを言い、その口論の終わりに「あなたがゲイなのが悪いのよ」と言い放つ。このとんでもない論点のすり替えにケンカしていたことが馬鹿馬鹿しくなってしまう主人公は、チャーリーを励ましだしてしまう。
それに加え、下品じゃない下ネタには素朴さすら感じ、ここにもチャーリーの抜群のセンスが発揮されている。チャーリーに友人が多いというのも納得できる。
以上、チャーリーの登場シーンはたったこれだけだが、もしこのチャーリーがいなかったらと考えるとこの映画がここまで印象深いものにはならなかったはずだ。
チャーリーの役割
近年の同性愛映画で頭に浮かぶのはやはり「ブロークバックマウンテン」だが、あの映画では主人公たちが家庭をもっていたため事の深刻さが全然違い、同性愛がどうこうというより不倫は家族を傷つけますよということをまざまざと見せつけられる。
ブロークバックマウンテンも心に残る映画であることは揺るがないが、上記のようなことからどうしても暗澹たる気持ちになり、何度もは観れない。
この「シングルマン」も決して明るい映画ではないし、大学教授である主人公の最期の一日というなんとも地味な内容だが、チャーリーの存在が差し色や口直し的な役割をしていてこの映画をより立体的なものにしている。
チャーリーがいなければ、ラストの主人公と教え子との会話の楽しさやそこからのときめきの入り口が半減していたかもしれないし、ときめきの入口が半減したとなれば二人で裸で海へダイブすることもなかったかもしれない。
そう考えると主人公がかっこつけずにはしゃぎまくって、幸せともいえる最期を迎えられたのは、チャーリーのおかげもあるといえる。
主人公の死後のチャーリー
主人公の死を知ったチャーリーは、きっとめちゃくちゃ泣く。
涙として悲しみをしっかり放出して、主人公のように恋人の死に囚われ続けることなく、受け入れて残りの人生を生きてくだろう。
ただ、最期のときを見届けなかったとはいえ、そのギリギリまで一緒に過ごした教え子には嫉妬するだろう。
チャーリーのプライドとしてジムの次は自分と思っていたことは、主人公とのケンカのシーンで「どうせ誰かにかっさらわれる」という言葉からわかる。
それなのに、ぽっと出の若い男に取られたとなれば面白くはない。
もしかしたら教え子に八つ当たりするだろうし、主人公の死について責めたりするかもしれない。
しかし、さんざん当たり散らしたあとに、時間が経ってこの教え子と友人になっている姿もまた想像できる。
メソメソするくせにさっぱりもしてるこのアイスクリームの天ぷらみたいなところがチャーリーの一番の魅力だ。
チャーリーの幸せとは
チャーリーは魅力的な人だが、全てを手に入れたい超がつくほどのワガママである。
この点はハイレベルな男性じゃなくても、チャーリーの求める「本物の関係」を築くためにはネックとなる。
だからといって自分中心じゃないといやだと思わないチャーリーなんてもはやチャーリーではないし、大変悩ましいところだ。
それに改めてチャーリーの現状を考えてみると、お金にも困ってないし(むしろ裕福)、あまり仲は良くないとはいえ巣立った子供もいる、友人もたくさんいるし、見た目だって綺麗、ここにチャーリー好みのハイレベルな男性と「本物の関係」を築きでもしたら、チャーリーはすぐに事故などで亡くなってしまうなどの災いが起きてしまうのではないかと思ってしまう。
色々と思案してみたがチャーリーの望む完璧な幸せは、現世で成し遂げるのは難しそうだ。
いずれにしても、せっかくこの「シングルマン」という映画で大いになる貢献をしてくれたチャーリーだから、せめて最期の時に「私の人生も悪くなかったわ」と思える人生を歩んでもらいたい。
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