東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』レビュー - クォンタム・ファミリーズの感想

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クォンタム・ファミリーズ

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文章力
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演出
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東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』レビュー

4.04.0
文章力
4.5
ストーリー
3.5
キャラクター
5.0
設定
5.0
演出
5.0

目次

量子家族たち

『クォンタム・ファミリーズ』、直訳すると「量子家族たち」。クォンタム(quantum)とは量子のことである。量子は物理量の最小単位で、量子力学という学問には観測問題というややこしい問題があって、と全て理解していこうとすると大変なことになるのだが、難しいことを考えなくても「並行世界」あるいは「パラレルワールド」という言葉は私たちにとってそれなりに馴染みのあるものではないだろうか。多くの小説や映画、アニメで登場する概念で、簡単に言うとこの世界とは別の世界のことである。別の世界と言っても、天国や地獄のことではない。妖怪がいたり、魔法が使えたりする世界(これらは「異世界」だろう)のことでもない。パラレルワールドはこの世界から分岐し、この世界に並行して存在する世界、この世界と似ているけれどどこか違う世界だ。

例えば、街中で困っている老人を見かける。ちょっと気難しそうな人だ。下手に声をかけたら、年寄り扱いするなと怒られるかもしれない。あなたは散々迷って、結局声をかけなかった。このとき、もう一つの「声をかけていた世界」が分岐して、今のあなたの世界と並行して存在している。その世界でのあなたの生活は、あなたの世界におけるものと大して変わらないかもしれないし、もしかしたら意外ととっつきやすいタイプだったその老人と意気投合し、年の離れた友人関係が始まっているかもしれない。

この小説も、そんな「こうだったかもしれない」別の世界が次々と立ち現れ、「こうだったかもしれない」家族たちがいくつもの世界を行き来する物語である。

ややこしいけれど読み解きたい

この家族の物語を味わい尽くすには、物語のなかで干渉しあう並行世界をしっかり把握することが重要だ。その意味で、この小説は非常に難解である。いつ・どこで・誰が・何が・どうなっているのか、ちょっと気を抜くと訳が分からなくなる。なまじ文章自体が読みやすいばかりに、何が起こっているのかよく分からないまま、登場人物に感情移入して物語に翻弄される。もちろんそれも一つの楽しみ方だ。

でもやっぱり理解したい、物語の全貌を見渡したい。そんな人に必要なのは、紙とペンである。どんどん先に読み進めたいのをグッとこらえて、メモを取り、場合によっては図を描き……そうやって辛抱強く物語の姿を追い求めるのも、またいいものだ。

ということで、ここで少し整理してみよう。

主な「世界」はざっくり分けて二つ(①、②)。その二つがそれぞれ主人公・往人の入れ替わりによって分岐するので、計四つということになる。Aを入れ替わりによって分岐した後の世界、Bを入れ替わりの起こらないオリジナルの世界として書き出すと以下のようになる。

【① 葦船往人と妻の友梨花の関係が破綻しており、子供のいない世界】

①ーA 二〇〇七年夏、三十五歳の往人が、娘と自称する人物からメールを受け取る世界。往人の人格は②ーAの世界の住人(テロリスト)に入れ替わり、二〇〇八年春、テロ未遂犯として逮捕される。

①ーB 往人がメールを受け取らなかった世界。往人は心を病み、友梨花に性行為を強要する。友梨花は息子である理樹を身ごもり往人と離婚、往人は自殺。理樹は苦労の多かった母の人生を救うため、①ーAの往人と②ーBの風子のやりとりに介入し、二つの世界の往人の人格を交換する。

【② 葦船往人と妻の友梨花の関係が良好であり、風子という娘が生まれている世界。往人はテロリストである】

②ーA 往人の人格が①ーAの往人に入れ替わった世界。往人は二〇〇八年春のテロを起こさず死なないが、往人の信奉者が起こしたショッピングモールのテロで友梨花と風子が死亡する。

②ーB 往人が二〇〇八年春のテロで自爆して死ぬ(捜査上は往人は犯人ではなく「巻き込まれた」ことになっている)世界。風子は大人になってから①ーAの世界の往人にメールを送る。

※ ①ーAと②ーBは、①ーAが二十七年八ヶ月過去にずれる形で繋がっている。これを利用して、理樹や風子は過去の往人にも干渉できる。

こうして見渡してみると、往人・風子・理樹の三人は、同じ世界では家族になりえない「家族」であることが分かる。そんな三人と友梨花の運命が、世界を越えて絡まりあう。『クォンタム・ファミリーズ』は何ともややこしく、読みごたえのある小説なのだ。

「物語外2」の世界

さて、この小説を読んだ誰もが多かれ少なかれ疑問に感じるだろう箇所がある。それは、「物語外2」と題された最終章だ。「ぼくは九年前に結婚した。」で始まる第一部に対して、「往人は九年前には結婚することができなかった。」という一文で始まるこの章には、往人と友梨花の子供が登場する。それは風子でも理樹でもなく、「汐子」と名付けられた娘である。

汐子という名は、この物語で何度か登場する。それは②ーBで風子の父親だった往人が遺した童話の主人公の名であり、後に風子が作り上げたコンピュータ上の擬似人格の名でもある。あるいは、生まれてこなかった渚(渚については後で触れる)と往人の子供の名前。一方、①ーAの渚は往人ではない男性との間に「汐子」をもうける。さらにこの世界では、「汐子」が主人公となる物語を書くのは往人ではなく友梨花である。

しかし「物語外2」の汐子はそれらのうちのどの汐子でもなく、往人と友梨花の生身の娘として登場する。つまり「物語外2」は物語中に出てくるどの世界とも違う、もうひとつの並行世界なのだ(一方で、巻頭の「物語外1」は物語中のどれかの世界と関係した「資料」の集まりであることが、読み進めるうちに明らかになる)。この世界は何なのか。何のために、このような世界の存在が私たち読者に知らされるのか。

往人の罪

ここで注目したいのが、往人が高校生のときに犯した性犯罪と、当時小学生だった被害者の渚である。渚の存在は、友梨花の精神状態に深い影響を与えている。②の世界では大人になった渚と往人は親しく、二人の間に自分には立ち入ることのできない関係があると感じた友梨花は、復讐として往人の人生を破壊する。表向きは優しく接しながら、往人が内心でテロへと至る過激な思想を育んでいくのを促すことによって。

皮肉なのは、①ーAの世界で友梨花との関係にストレスを感じていた往人が、②ーAの世界の友梨花との関係に幸せを見出していたことだ。夫婦関係が良好な②の世界でのほうが、友梨花の悪意はよっぽど深いというのに。

しかし、①ーAの友梨花もまた、最終的には渚を憎むことになる。この世界の渚は往人の愛人ではなく、友梨花とは仲のいい姉妹のような関係を築いていたというのに。友梨花はこの世界で、「検索性同一性障害」という、自分が送っていないはずの人生の記憶が頭に入り込んでくる病に侵されていたのだ。渚の存在に苦しんだ並行世界の友梨花の記憶が、この世界の友梨花を復讐に駆り立てる。

往人の犯した行為は、どの世界においても友梨花に、往人の「家族」に重くのしかかる。

「物語外2」の世界では、往人は大人になった渚に出会っていない。その代わりに友梨花に過去の罪を告白し、必ず被害者に謝罪すると約束している。自力で被害者を見つけられない以上、自首して警察の力を頼るしかない。逡巡する往人は、「友梨花を愛するためにはこの堂々めぐりを断ち切らねばならない」と考える。他の数多くの世界で、往人はこの罪のために友梨花を愛することができず、風子や理樹という「家族」たちと家族になれなかった。とすれば、最後に往人が警察署へと踏み出す「物語外2」の世界は、往人とその家族が救われる場として読者に示されたものではないだろうか。

もちろん、何のためにという疑問は残る。バッドエンドの小説はいくらでもあり、登場人物たちが救われなくても、読者である私たちは痛くも痒くもないのだから。しかし、この小説が並行世界の物語であることを考えると、「物語外2」はやはり必要であるように思われる。一つの世界のなかで展開する物語と違い、数々の並行世界を扱ったこの物語では恐らく、登場人物が救われる世界が一つもないというのは端的に不自然で偏りすぎなのだ。

この世界で受けた傷が、存在しないか癒されるかする世界が存在する。それは並行世界という考え方の光であり影でもある。どんなに辛くても、無数にある世界のどれかでは自分は救われているという無条件の幸福と、けれども救われている自分は「この」自分ではないという絶望。そんな表裏一体の喜びと悲しみが、「物語外2」には溢れている。

汐子の謎

しかし、そんな救われた世界であるはずの「物語外2」の子供は、なぜ風子でも理樹でもない「汐子」なのだろう。「理樹」は往人のDVで生まれる子の名前であり、「風子」の母親である友梨花は悪意を持って往人に接する友梨花でなければならないから、というのももちろんあるだろう。「物語外2」の往人と友梨花には、往人の過去の罪を二人で乗り越えて愛し合おうとする姿勢が見られる。しかし、それならば子供の名は、風子でも理樹でもなければ何でもいいということになる。なぜわざわざ、この物語のなかではいろいろと曰くのある「汐子」がここで選ばれたのだろう。

②ーBの世界で風子が作った擬似人格「汐子」は、風子が読み聞かせた物語のせいで、父と姉と弟が母のもとに帰還する物語を成立させることが自分の使命だと信じ込んだ。全ては、どこか別の世界で十分に成長した、けれども生身の人間ではないために現実と物語の区別がつかない「汐子」が、みんなをおうちに連れて帰るために引き起こしたことである――これは、物語(「物語外2」の直前まで)の最後で語られる理樹の推理である。

これが正しいとすれば、「物語外2」の世界もまた、家族の帰還を実現するための汐子の挑戦の一つなのではないだろうか。「物語外2」には、さらに「i 汐子」という小タイトルがつけられている。「i」は虚数だ。恐らくこの「汐子」は、文中に登場する人間の子供のことではなく、どこかでこの世界に干渉している擬似人格の(だから数字ではなく虚数の記号が付される)「汐子」なのだろう。もしかしたら、この世界の人間の子供である汐子は、擬似人格「汐子」からの干渉を受け、①ーBの理樹や②ーBの風子のように、並行世界に首を突っ込み始めるのかもしれない。ばらばらになった往人と風子と理樹を、母である友梨花のもとに連れて帰るために。

けれども、もっと平和な結末も考えられる。往人は何らかの形で罪を償い、友梨花と汐子の元に戻ってくるのではないか。そして風子と理樹は、汐子の妹と弟として、今度こそ同じ世界に生まれてくるのではないか。この世界の「家族」には、この世界のなかだけで完結する幸せが待っているのではないか。

作者の意図とは異なるかもしれないが、そんな希望を持ちたくなる。

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