フェデリコ・フェリーニ監督の自己耽溺が生んだ、人工の極致に咲いた地獄花とでもいうべき、怪奇な映像の交響曲 「サテリコン」 - サテリコンの感想

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フェデリコ・フェリーニ監督の自己耽溺が生んだ、人工の極致に咲いた地獄花とでもいうべき、怪奇な映像の交響曲 「サテリコン」

4.54.5
映像
4.5
脚本
4.5
キャスト
4.0
音楽
4.0
演出
4.5

壮大な自己告白の戯画化である「8 1/2」を1963年に作った、世界最高峰の映像作家・フェデリコ・フェリーニ監督は、その女性版ともいうべき1964年の「魂のジュリエッタ」で初めてカラー映像に挑戦し、神秘性と幻想の世界へと深く足を踏み入れましたが、この映画「サテリコン」は、毒々しいまでに絢爛として、人工の極致に咲いた地獄花とでもいうべき、怪奇な映像の交響曲なのです。

自作の解説がうまいフェリーニ監督は、この作品について「これは未来へでなく過去へ向かってのSFの旅である」と語っていて、もし一言で「サテリコン」を説明しろと言われれば、なるほどこういう他はないだろうと思われます。とにかく、この映画はフェリーニ監督初の古代劇であり、また彼がなんらかの形で"原作"を借りたものも初めてなのです。

その原作者は、一世紀のローマに生きたペトロニウス。有名な暴君ネロは、キリスト教徒を迫害し、母を殺し妃を処刑したローマ皇帝ですが、ペトロニウスは、その洗練された皮肉や風刺でネロの寵臣でした。しかし、後にピーソの謀反に加担したことがばれて、自分の血管を切って客と静かに談笑しながら自殺したと言われています。

背徳と逸楽の連続であるこの映画の中で、ただ一つ清純なイメージのエピソードとして、侵入者に捕らえられるよりはと、子供を安全な場所に送り、奴隷を解放してから、腕の血管を切って自殺する貴族とその妻が出て来ますが、これは原作者に対するフェリーニ監督の敬意、あるいはサービスなのかも知れません。

現在、断片としてしか残っていない原作からフェリーニ監督が借りたのは、爛熟期の古代ローマの退廃した社会です。デカダンスはおそらくフェリーニ監督の終生のテーマでしょうが、彼はキリスト教文明以前の"異教徒"たちの最後の放埓な饗宴の中に、キリスト教がその規制力を失ってしまった現在の"甘い生活"と同じ快楽の無惨さを見たに違いありません。

ピカレスク(悪漢小説)の一種としての原作は、南イタリアを舞台する三人の同性愛青年の放浪記だそうですが、映画の主人公あるいは狂言回しは"青い目"の美青年エンコルピオ(マーティン・ポッター)。彼は友人のアシルトと美少年ジトンを取り合うゲイですが、女も嫌いではない両刀使いらしい。貴族夫婦が自殺した後の邸で、残っていた女奴隷を挟んでエンコルピオとアシルトが戯れる乱交(?)シーンもあります。

この二人の青年に共通することは、秩序への反抗、快楽への欲望はあっても、まったく精神への志向を持たない"美しい野獣"であることでしょう。そして、彼らが巻き込まれ、あるいは目撃するさまざまの悪夢のような光景が綴られていきます。アシルトが、ジトンを俳優ベルナキオに売り飛ばしたのに怒って、エンコルピオがベルナキオの所に押しかけるのが冒頭の場面ですが、その道化の劇中劇は、これからエンコルピオの出発しようとする放浪が、人生に向かっての出発なのか芝居への出発なのか、観る者を戸惑わせる仕掛けになっているのです。フェリーニ監督の演出は総じて、映画的というより古代の円形劇場での演劇的なリアリティーを目指しているように思われます。

酒池肉林を絵に描いたような、成り上がり者のトリマルキオの宴会は、原作者が皇帝ネロの逸楽を風刺したものだそうだ。元奴隷のトリマルキオが、美食のために太りたるんだ退屈な顔を、女たちに拭かせている姿は、単なる風刺と片付けるだけではなく、なにか作者のいたましい同感さえ感じられます。

この宴会で偶然エンコルピオに助けられることになる老貧乏詩人のエモルポは、後にどういうわけか金持ちになってエンコルピオに好意を示すのですが、死ぬ時には、遺産が欲しい者はわが死肉を食えと遺言して、実際に口をモグモグさせている人間たちが画面に出てくるのだからかなわない。

そして、皇帝への貢ぎ物と称して自分の軍船に美女や少年をかき集め、船中で美青年エンコルピオと"結婚式"をあげる隻眼の貴族リーカは、フランス俳優アラン・キュニーですが、皇帝に対する反乱軍の手で彼の首がちょん切られるのをニヤリと笑って、冷然と眺める奥さんがキャプシーヌ。とにかく、あまりにも毒々しいメーキャップなので、このキャプシーヌもそれからトリマルキオの妻のマガリ・ノエルも、初めは誰だかわからないくらいです。

この人工性ということは、この映画の大きな特徴になっていて、人物の多くはいやらしくリアリスティックで、撮影されたというよりは絵で描かれたような感じでもあるわけですが、事実、カメラは、初めから自然光線を無視した設計で、それは野外シーンでさえ貫かれているのです。そしてまた、野外シーンといっても、未亡人の性欲をエンコルピオが満たす砂漠のシーンなど、そのほとんどは巨大なステージに組まれたセットなのです。なお、異様なメーキャップについてフェリーニ監督自身は「俳優の顔は、私の言葉なのだ」と語っています。

石で作られた古代ローマの浴場、奇怪な女たちが客を引く淫売宿が、延々とした移動撮影で描かれ、牛頭のマスクをかぶった剣闘士とエンコルピオが、戦わされる谷間の廃墟、みんなが寝そべって豚の丸焼きなんかを食いちらかす宴会場等々、この映画で美術の占める比重は、メーキャップと共に決定的と言えると思います。その圧倒的な視覚刺激の乱舞から、この映画は目の心のために作られたものであって、心の目のためではないような気がします。この幽玄な色彩の映画は、超現実的な叙事詩であるかのような映画的体験を味あわせてくれるのです。

とにかく、何から何まで、フェリーニ監督の自己耽溺が生んだ巨大な作品で、その場合の彼の自己が、どれほどの普遍性を我々との関係で持つかが問題になるわけですし、ヨーロッパ文明の中にどっぷりと身を沈めて仕事を始めたフェリーニ監督と、東洋の我々との間の体質の相違は、まず美意識の面でも痛切に再確認されることになるのですが、ともあれ、これほど映画の中に自己をさらけ出せる作家もまた、幸福と言わなければなりませんし、その徹底ぶりが観ている我々を引きずるのかも知れません。

原題は「フェリーニのサテリコン」で、彼は初めて原作を他から借りながら、最もオリジナルな自分の映画を作ったと言えるのかも知れません。

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