「カキフライが無いなら来なかった」からの第二弾
前作の楽しさが忘れられず
前に読んだ「カキフライが無いなら来なかった」の楽しさが忘れられず、第二弾だというこの作品を手に取った。やはり期待は裏切られず、ページをめくる手が止められなかった。前作の「カキフライが無いなら来なかった」は又吉の自由律俳句だったけれど、今回の「まさかジープで来るとは」はせきしろの自由律俳句だ。何も知らずとも、本棚にこのタイトルが並んでいたら絶対この本は手に取ると思うくらい、どちらも想像力が一気に膨らむ文章だ。
どちらかというと前回の作品に比べ力がはいっているように感じたけれど、それはそれでまた違う味が加わり、いい仕上がりになっている。そして自由律俳句の自由さと表現力の幅の広さに、再び魅了させられた思いだった。
自由律俳句での表現力の高さ
五七五というリズムを排除しているにもかかわらず、これらの文体にはリズムがある。「豆腐が箸から落ちて見事に砕けた」とか「勝手に意味を持たせて独自に誤っている」など、読んでみてわかるリズムを感じる。俳句にはまったく疎いし、音楽も似たようなものなのでなにも分析はできないのでなぜそうなのかはわからないけれど、そこには必ずリズムがある。そこが自由律ながらも俳句と言わしめるのかもしれない。
また短い文章であるゆえに、その短さで最大の表現を表すために、漢字で表すことのできる文字は漢字になっている。前作ではあるが「カキフライが無いなら来なかった」にしても、この“無いなら”の部分は普通なら“ないなら”と表されることが多いと思う。それをあえて漢字で“無い”と表記することでその“無さ”感に絶対的な雰囲気さえ加わる。また「虫に刺された老婆が足を掻いている」の“掻いている”は普段から漢字で表記されるだろうけれど、“虫”“老婆”“掻く”という漢字が連なることで、妙に生々しく不気味な印象を醸し出すこともできる。
今回の「まさかジープで来るとは」は前回気づけなかった、自由律俳句を読んでいると漢字の力も大きく感じることができると気づいた作品だった。
俵万智の解説が不満
「サラダ記念日」で有名な俵万智が、この作品に解説を書いている。解説とかあとがきとか、だいたい蛇足なものだと思っていたけれど、今回のはその思いを確実にしたものだった。決して俵万智をけなすわけではないけれど、どうも腑に落ちなかったことを書きたい。
自由律ではあるけれど、俳句と名のつくものであるから彼女が解説に指名されるのはわかる。そして彼女の文章も別に嫌味でもなく、いかにも解説らしいものだ。しかしせきしろや又吉が作った自由律俳句を俳句に仕立て直すのはいかがなものだろう。例えば「痩せた子猫に逃げられる」としたせきしろのせっかくの悲しい一文を、俵万智は「春寒し」という季語をつけて俳句にしてしまった。こうなると雰囲気が一気に変わる。言葉を研ぎ澄ませてある作品に余計なものをつけたとしか思えないのだ。実際その「春寒し痩せた子猫に逃げられる」では逃げた子猫を目で追いかけて手まで伸ばしてしまったような、そしてその手さえ思わず見つめてしまったような物悲しさが消えてしまっている。季語の力の強さや俳句ならこうなってしまう例を示したかったのだとは思うのだけど、一度そうされてしまうとそのイメージが頭に入ってしまい、この「痩せた子猫に~」を読むたびにその季語が頭をよぎる羽目になってしまった。
俳句では収まりきれない自由律の素晴らしさを謳うためではあるのだろうけど(そしてそれはわかるのだけど)、このように毎回俳句に仕立て直すのがなんだか嫌だったのだ。
この気持ちで思い出すのは、サリンジャーの「ナインストーリーズ」の中のひとつ「エズミに捧ぐ」で主人公がエズミと教会で出会う場面だ。エズミを含む子供たちの聖歌が終わったあとの素晴らしい余韻を指導の先生の声で乱されたくなかったから、主人公は早めに席を立つあの場面だ。
この解説は私にあの場面を思い出させた。
差し挟まれている写真も2人の作品であること
この作品も前作にも、間に写真が差し挟まれている。はっきり言えばなにかよくわからないものが撮影対象になっていることが多い。もつれたホース、うらぶれた看板、自転車の上に山積みにされている新聞…。写真の価値と高価な絵画はあまりよくわからないけれど、おそらくこの写真たちも芸術的なものではないと思う。それでもなにかしら気になる日常の見慣れた風景をうまく切り取っているように思えた。またなんということのない風景が彼らの独特のセンスで切り取られることによって、なにかしら味を含んで出現しているような、そんな気にさせる写真たちだった。
その写真の中で恐らく又吉とせきしろの幼少時代であろう写真がある。それぞれに今の面影を感じさせるその幼い顔は、この子が今こんな風になりましたという意味なのかもしれない。ただそこには“ただ可愛いだけ”という感じでなかったのが好感が持てたところだ。
せきしろの自由律俳句
前作に続き、独特の視線で見た出来事や気づいたことを短い詩で表した文章は、相変わらずキレが良い。又吉の作品もだけれど、そこにはただ単なる“日常的あるある”や“ちょっと面白いこと”ではない、なにかが含まっているところが味わい深い。そしてその短い文章をぱっと読むだけでたちまち想像の世界が膨らんでしまう心地よさは、クセになりそうだった。
「あの家だけ起きてる」は恐らくせきしろ自身も夜更かししていたのだろう。夜眠れずにいた夜などに窓の外を見たときに、皆部屋を暗くして寝静まっている中、あの家だけ電気がついている。その時思うのはまだ自分の他にも起きている人がいるという安心感と、あの人は今部屋で何をして起きているのかなという親近感だろう。そういうことを一気に想像し、眠れなかった当時のころも思い出し、しばらく物思いにふけってしまった。すごい視点だと思う。
「写真の中の居間はもうない」もなかなかノスタルジーを感じさせる作品だ。実家のどこかを改築か増築かして、その写真に収まっている居間はないのだけど、ここに置いてあったソファーが好きだったんだよ、その下に敷いてあるカーペットの模様はミトコンドリアのようで嫌いだったけれど、といった実家の思い出が立ち上ってくるのと同時に懐かしさも感じさせる。
たくさんの作品で他にも気に入っているものは多いけれど、特にこれらが今記憶に残っている作品だ。
又吉の自由律俳句
せきしろに比べると比較的人と接することがまだ多そうな分、その文にはどこかしら明るさが感じられる彼の作品は、やはりお笑い的要素が多く感じられる。そこで確かににやりとしてはしまうのだけど、個人的にはそうでない俳句のほうが好みだ。
例えば「有刺鉄線の向こうには興味がない」は、向こうから文字通り刺々しくシャットアウトしてくれているけれど、こっちだって全くそっちには興味がないのだといった無駄な気合と意気込みが感じられる。きっと仰々しいほどの有刺鉄線だったのだろう、そこまでしなくともこっちは全くそっちを見てませんから!という気持ちは、個人的にはとても理解できた。
また、今回又吉はほのぼのとした作品がちらほら見えた。「地面に描ける石だよ」がその一つだ。子供の頃誰しもアスファルトに石を絵を描いただろう。そして描ける石と描けない石が確かにある。見分けるのも難しく、描ける石だ!と思い描いてみてもまったく描けず、といった経験を子供の頃している人ならこの文は、心に甘いものを確実に残すと思う。そして「地面に描ける石だよ!」と得意げにその石を持った手を掲げてみせる子供の笑顔さえ目に浮かびそうだ。印象としては又吉らしからぬ作品のように思えるけれど、この作品は好きなものの一つだ。
今回、前作「カキフライが無いなら来なかった」に続き、第二弾「まさかジープで来るとは」を立て続けに読んだ訳だけど、自由律俳句の魅力が実感できたと思う。これならその辺の小説を読むよりずっといい。そして何度も読み返したくなる作品だ。
本棚に並べたいなと思える本はそうないのだけれど、この作品は久しぶりにそう思った作品だった。
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