カトリックと仏教とヒンズー教という三つの宗教を通して、人間の死生観を深く厳しく掘り下げた作品 「深い河」 - 深い河の感想

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深い河

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カトリックと仏教とヒンズー教という三つの宗教を通して、人間の死生観を深く厳しく掘り下げた作品 「深い河」

4.54.5
映像
4.5
脚本
4.5
キャスト
4.5
音楽
4.5
演出
4.5

日本映画の監督の中で、ずっと追い続けている人がいます。その監督の名は、熊井啓です。1964年の監督デビュー作の1948年に起こった東京・椎名町の帝国銀行支店の行員12名毒殺事件をセミ・ドキュメンタリー的な手法で追求した「帝銀事件・死刑囚」、二作目の「日本列島」は、前作のテーマと方法を更に突き詰めたもので、帝銀事件に引き続いて起こった占領下の謎の事件である下山、三鷹、松川事件から、更に占領終結後にも起こっているニセ札事件、スチュワーデス殺人事件とその容疑者であった外国人神父の国外逃亡などを、アメリカの情報機関の謀略として追及したミステリー的な社会派ドラマなどを立て続けに撮り、当時、松本清張の「日本の黒い霧」のようにアメリカの謀略を追求するノンフィクション文学作品が現われはじめていたとはいえ、まだ後年のようなCIAの活動の本格的な暴露などの行なわれる以前であり、当時の映画としては極めて野心的な作品だったのです。

その後も、「黒部の太陽」、「地の群れ」、「忍ぶ川」、「サンダカン八番娼館・望郷」、「お吟さま」、「天平の甍」、「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」、「海と毒薬」、「千利休・本覺坊遺文」など、初期の徹底した社会派的な告発的な作品から、中期の歴史映画、そして後期になると、もっと人間の死生観を掘り下げていくという傾向に変わっていったと思います。

1990年の秋元松代の名戯曲「かさぶた式部考」による「式部物語」、1992年の武田泰淳の有名な戯曲による「ひかりごけ」などが、後期の作品ですが、この傾向でひとつの到達点となったのが、この映画「深い河」だと思います。

インドのガンジス河のほとりの聖地として有名なベナレスに、日本からの観光ツアーの一行が行く。よく知られているように、インドの人口の大多数を占めるヒンズー教徒にとってはこの河は、人間の罪業を浄化してくれる聖なる河であり、そのために全国から巡礼の人々が集まって、ほとんど泥のようなその水に頭まで全身を浸すし、同時にそのあたりでは露天で死者の火葬をやっていて、死体や灰をそこに流すのです。

異教徒にとって、それは凶々しいまでに異様な眺めであり、それに先進諸国の人々にとっては不潔で不衛生で耐え難い光景でもある。しかし、その気になりさえすれば、ここでの水浴びは確かに感動的な経験であるかもしれません。

生と死、清潔と不潔、群衆との一体感と死という究極の孤独の実感などなど、すべて生きることにまとわりつく、極端に矛盾した事柄が、大いなる水の流れとともに押し流されてゆき、その流れに「悠久」を感じることも可能だろう。ただ問題は、まさにその気になるかどうかである。

この映画では、秋吉久美子の演じる成瀬美津子という人物がその気になる。彼女は自分のエゴの不毛さにつくづく嫌気がさしていて、その心の浄化の機会を求めている人間なので、その気になる動機は十分にあるのだが、それがこの映画の中で、観ていて納得できるまで、そう感じられるかどうか、が勝負である。

クライマックスと言えるその場面で、河に下りてゆく石段のひとつを正面から見据えたカメラは、沐浴のために石段を下りてくるインド人の女性たちの姿をゆっくりと捉える。その中に秋吉久美子扮する成瀬美津子がいる。彼女はこの場面だけサリーに着替えて厳粛な面持ちになり、一歩一歩、さりげなく、しかしその足どりの手応えを確かめるように、群衆の中を下りていって、ためらい、そして思い切って水にもぐる。彼女のそのこわばった顔と、彼女のことなど気にもかけずに、むしろ嬉々とした表情をしている、すぐ傍のインド人の女性たちの、そのごった返すような眺めの中での対比に、劇的な盛り上がりがあり、色とりどりのサリーの原色の混じり合うエキサイティングな色彩的饗宴もあって、見事にこれは美しい場面になっていたと思う。

愛のあり方をめぐる若干、歯の浮き加減ないくつかのストーリー、信仰と生の意味についての人生論的な会話などに、最終的に確固とした意義を与えるのはこの場面であり、これが外面的なだけでなく内面的にもしっかとした高揚感を持ち得たということは、この場面を核としてできている作品全体が、慎重に構築されていて成功だったということになるだろう。

生まれ変わると言って死んだ妻の言葉にこだわって、本当にガンジス河のほとりの田舎を歩き回る井川比佐志も、インドの村の人々の親愛感あふれる雑踏に取り巻かれる姿が、よく似合って風景に溶け込んでいると思う。「式部物語」や「ひかりごけ」など、後期の熊井啓作品では、悩める魂の救済の主題がやや唐突に出て来ていたが、その点ではこの作品がいちばん落ち着き払って説得力もあると思う。

この映画の原作の遠藤周作の小説では、これまでに原作の発表順に言えば「海と毒薬」(熊井啓監督)や「沈黙」(篠田正浩監督)が映画化されているが、この「深い河」と比べると、そこに主題の発展のひとつの筋道がくっきりと見えてくる。こく単純化して言えば、「海と毒薬」は日本人にとっての罪の意識、罪の自覚とは何か、という問いだったと思う。作者の遠藤周作は、カトリックの信者として、そこに明白な答えを持っているつもりだが、同時に罪と許しの境界があいまいな汎神教世界の日本人として、実は必ずしも自信がない。だからそれを問いつめる、ということが主なモチーフだったはずである。

「沈黙」では、その問い方に変化が現われてくる。拷問されるとすぐに転び、またすぐ元に戻るキリシタン弾圧時代の信者が登場し、こんなだらしのない信徒をもキリストは許してくれるはずだ、という遠藤周作の主張が現われる。これはほとんど浄土真宗みたいな考え方で、キリスト教としては異端くさい。しかし、こういう仏教的な慈悲というモラルを持ち込まないと、自分も日本人のくせに西洋人の信仰で、日本人の徳性を裁くということになって、どうにも居心地が悪いというような内面的な事情があったのではないかと、私は想像している。

そして、この「深い河」である。ここでは主な登場人物たちの一人である大津(奥田瑛二)は、カトリックの信者だが、彼は自分が善の立場で悪を裁くキリスト教の発想にどうしてもなじめない。遠藤周作はこの男を、何を言うにもまず「すみません」という言葉からはじめる人物として描き出していますが、これはなかなか意味の深い設定で、他人を裁くことのできない仏教的人間の、自分の至らなさについてしか語ることのできない仏教的な思考がそこに要約されていると思うのです。

そこで彼は、裁きの宗教としてのキリスト教との矛盾を解決するために、教義の壁を取り払った"普遍的な宗教心"といったものを想定するのです。そしてそれを実践するために、キリスト教でも仏教でもないヒンズー教の世界に飛び込み、インドはガンジス河のほとりのベナレスの聖地で、行き倒れの人々を河に運んでやっているのです。

この作品ではヒンズー教は、およそ教義らしいものの見えない、ただ苦悩とそこからの救いを求める祈りだけが純粋化されてあるような宗教として捉えられており、だからこそどんな種類の苦悩も受け容れることのできる信仰とされているのです。

遠藤周作は、さまざまな苦悩を抱えながら、ガンジス河に旅をする人々の日本人ツアーの物語を設定し、そこに「きっと生まれ変わるから私を捜して!」と言って死んだ妻の言葉にこだわる磯部(井川比佐志)のような、どちらかといえば仏教が肯定的に取り込むことを苦手とする種類の愛の礼賛の苦悩を投げ込むのです。また、インパール作戦で死者の肉を食べて生き延びたことを生涯、苦にし続けた戦友(三船敏郎)の霊を弔いたいという、沼田曜一の演じる元兵士の、これはむしろ仏教のほうが扱い馴れている"罪障消滅の苦悩"も放り込むのです。

更には、誰をも心から愛したことがないのが苦しみだという、多少こじつけがましく言えば、キリスト教によって先導された近代文明の産物であるような悩みを背負った美津子というヒロインもそこに加わるのです。果たして大いなるガンジス河は、そのすべてを飲み込んで浄化しきれるのか。常識的に言って、答えはほとんど「ノー」だと思われるが、一瞬、もしかして「イエス」かもしれないと立ち止まらせる真摯な張りつめたものが、この映画にはあると思います。かつてなく厳しい顔をしていて、観る者をたじたじとさせる三船敏郎の姿からも、それが強く発信されているのです。

この「深い河」は、カトリックと仏教とヒンズー教と、三つの宗教が三つ巴になって進行してゆく物語であり、そのドラマの舞台になっているのは日本とフランスとイスラエルと、特にインドである。外国映画に日本や日本人が出てくると、日本人である我々はたいてい、変な描き方をしていて、これは何だ? と強い違和感を覚えるものなので、逆に日本映画で外国を描いた場合、描かれた相手側がどう感じるかというのも気になってきます。特に、この映画の場合、単純に外国の風俗背景として使っているというのではなく、西洋人やインド人の宗教の理念まで立ち入って考察することが主題になっているからです。

秋吉久美子の演じるこの映画のヒロイン美津子は、ミッション系の大学を出ていて、学生時代はキリスト教に反発しており、親譲りのコチコチのカトリックの学生である大津(奥田瑛二)をからかいたくなって、誘惑して肉体関係を持つ。そして、彼が当然結婚するつもりでいる姿を笑い者にする。この屈辱で打ちのめされた大津は、これをきっかけにして本気で神を求めるようになり、フランスのリヨンの神学校に留学するのです。しかし、彼は善悪二元論の権威主義的なカトリックにどうしてもついてゆけないものを感じ、信仰に人間的なやさしさを求め、そのために神父への道を進めないのだ。そして、彼は修道僧としてイスラエルに行き、更にインドのベナレスのガンジス河畔のヒンズー教徒の仲間に入って、行き倒れの貧民の世話などしながら信仰を深めていくのです。

そのベナレスに、美津子は日本人観光ツアーの一員としてやって来ます。人生に目標がつかめず、虚しい気持ちを噛みしめながら日々を過ごしてきた彼女は、大津の消息を追い、彼を求めてやって来たのです。二人はベナレスの有名な沐浴場のほとりで出会い、互いに心を開いて語り合うのです。

しかし、日本人観光客の一人の心ない所業をたしなめるために石段を追って走った大津は、そこで転倒して頭を打って死に、それを見とった美津子は、大津の遺体を焼いた灰をガンジス河に流してやるのです。この灰を流すくだりは原作にはなく、熊井啓監督が脚色で付け加えたものであり、カトリックの善悪二元論を仏教の慈悲やヒンズー教の万物流転の思想の方に融和させようとする原作者・遠藤周作の立場を、更にもう一歩、ヒンズー教に歩み寄らせたものだと思います。

この映画のクライマックスは、大津の真摯な生き方に心を打たれた美津子が、小さな狭い自我にこだわって肩肘張ってきた自分をかなぐり棄てるようにして、ヒンズー教たちの群れに交じって、彼らと一緒に日の出の時刻の沐浴場で、ガンジス河の水の中に入ってゆく場面である。

近くでは死体を焼いて水に流しているその水は、異教徒にはまことにおぞましく不潔にも感じられるものだが、秋吉久美子は敢然とその水に入ってゆき、周囲のインド人たちとその"宗教的悦楽"の歓喜をわかち合っているのです。

そして、この場面は、エキストラの群衆の醸し出す愉悦感、輝かしいばかりの撮影(栃沢正夫)と荘厳な音楽(松村禎三)、更にツアーの一員の元日本兵(沼田曜一)が、苦悩の果てに死んだ戦友を悼んで、感極まるように唱える仏教のお経の響き、などなどが混然一体となって稀にみる素晴らしい映画的感動が盛り上がります。宗派の差異を越えた宗教的悦楽の一致点を求める遠藤周作と熊井啓監督の願いがここに結集され、それがまた今の世界の人類的な願いのひとつの焦点というべきものであることが、ここにくっきりと浮かび上がるのです。

そして、その中心にいるのが美津子なのです。この役は、女優・秋吉久美子にとって女優冥利につきるものであろう。率直に言って、美津子と大津の学生時代のエピソードは物語としてまことに安っぽく陳腐なのですが、このクライマックスの盛り上がりは、それを補って余りあるものだったと思います。

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