スタンリー・キューブリック監督が国家の病気としての軍隊を、シニカルに痛烈に批判した戦争映画の傑作 「フルメタル・ジャケット」 - フルメタル・ジャケットの感想

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スタンリー・キューブリック監督が国家の病気としての軍隊を、シニカルに痛烈に批判した戦争映画の傑作 「フルメタル・ジャケット」

5.05.0
映像
4.5
脚本
5.0
キャスト
5.0
音楽
4.5
演出
5.0

国家病理学というような学問は、まだ存在しないと思うが、あっていいし、あるべきではないか。そんなことをこのスタンリー・キューブリック監督がヴェトナム戦争を描いた「フルメタル・ジャケット」を観て感じた。なぜなら、この映画は国家の病気としての軍隊を描いた作品だったからだ。

この映画は、ヴェトナム戦争の真っ最中の1967年におけるアメリカ海兵隊訓練基地での、一つの班の猛訓練と、翌1968年、ヴェトナム戦争の一つの山場となった、いわゆるテト(旧正月)攻勢に遭遇した彼らの戦闘ぶりとを描いているのだ。

映画の前半部が訓練、そして後半部が戦闘なのだ。軍隊の猛訓練を描いた映画というのは、これまでにもたくさんあります。鬼軍曹が普通の青年たちである新兵を徹底的にしごいて、勇猛な兵士に鍛えあげるというのが、その基本パターンだと思う。

その数多い軍隊訓練ものの中でもこの作品を際立たせているのは、ハートマン教官という鬼軍曹が四六時中、新兵たちに浴びせかける罵詈雑言の汚さと猛烈さだ。凝りに凝ったダーティ・ワードがとめどもなく彼の全身から発射され、新兵たちの人間性の善良な部分を叩き潰していく。

この教官を演じたリー・アーメイという男は、実際に元海兵隊の指導教官であり、この映画にはテクニカル・アドバイザーとして参加したのだが、彼のダーティ・ワードの叫びっぷりの凄さに感心したキューブリック監督が、俳優として起用したと言われています。実際、従来のこの種の役には、古くはヴィクター・マクラグレンとかワード・ボンドとか、お決まりの役者がいて、見るからに強そうで凄みもあるけれど、根はいかにも善良で愛嬌のあるオッサンという定型ができていたものだ。

しかし、このリー・アーメイには、そんな愛嬌なんてどこにもない。ただ、新兵をいじめることしか知らない低級な奴なのだ。そして、この洪水のようにあふれるダーティ・ワードを聞いていると、これが逆説的に新兵たちの「男らしさ」の感情を鼓吹するものであることが理解できる。

このダーティ・ワードは、女性の前ではもちろん、上品な社会人や無垢な子供たちの前でも言えない言葉なのだ。怖いもの知らずの乱暴者同士の間でしか言えない言葉である。つまり、彼らは、ダーティ・ワード漬けになることによって、まず自分たちが正常な社会人ではないことを確認するのだ。自分たちは、怖いもの知らずであり、男の中の男であると思うのだ。そして、彼らはまた上官から徹底的にいじめられ、軽蔑されることによって、世の中には強い奴と弱い奴、命令する奴と命令される奴しかいないということを学ぶのだ。

しかし、それは世界中どこでも軍隊というものは似たものであり、アメリカだけが特別だとは言えないだろう。むしろ個人の独立という意識の強いアメリカでは、上官への絶対服従という意識を植え付けるのには、ただ抑圧の連続だけでは難しいのではないかと思う。

案の定、うすのろで、いちばん痛めつけられたパイル二等兵(ビンセント・ドノフリオ)は、班の戦友たちからも連帯責任をとらされるために嫌われていじめられると、狂ったように銃に自分を一体化したあげく、訓練隊の卒業の日にハートマン教官を射殺して自殺するのです。これは、しごきの度が過ぎて発狂したという感じに演出されていますが、私としては、一寸の虫にも五分の魂の復讐だという気がしてなりません。

戦前の天皇制下の日本の軍隊や、ヒトラーやスターリンや毛沢東といったカリスマを持った時期のその国の軍隊では、上官に対する絶対服従という観念を兵士に植え付けることは、比較的容易だったが、個人の自由という観念が国民統合の誇らしい理念となっているアメリカでは、それはかなり難しいと思う。人間のプライドをいちばん破壊された、のろまな兵士が教官を殺すというのは、いかにもアメリカらしく、日本の軍隊を扱った映画ではちょっと見られないものだと思う。

アメリカ人に絶対服従の精神を叩きこむことは難しいが、しかし彼らに「男は男らしくなければならない」とか、「男らしくない卑怯者と見られるくらいなら、死んだほうがマシだ」と思い込ませることなら、容易であると思う。そもそも、このアメリカという国は、危険な新大陸の開拓という男らしく美化された事業から始まり、強い者こそが生き残るということを認め合うことで、国家の理想を創りあげてきたからだ。

アメリカの国是である「自由」も、多分に強者の自由であり、強い者こそがその能力を発揮するのに制約を極力少なくしようとする面が強い。強い者、困難に堂々と挑戦する者に対する賛美は根が深く、強力である。そしてそれは、最も見やすい形では「男らしさ」の賛美となり、西部劇、ギャング映画、戦争映画などで、世界最強の暴力表現の伝統も培ってきた。そして、その力はこの「フルメタル・ジャケット」でも、いかんなく発揮されているのです。

日本も時代劇、任侠映画、戦争映画などで暴力表現では相当な水準をいっていると思いますが、日本映画のそれにはどこか弱者の強がり的なところがあり、したがって悲壮美になりやすい。その点、あくまで豪放で豪快な暴力表現を築きあげてきたアメリカ映画のそれのほうが、自信にあふれていて本格的だと思う。

事実アメリカは、開拓時代以来それで成長を続け、なんでも世界一という状態を作り出し、今日も世界最強の国家であることは間違いない。彼らはそれを誇りとしている。その誇りを失うくらいなら、死んだほうがマシだと彼らに思いこませるのは、そう難しいことではない。

だが、しかし、そういう強さの担い手としての「男らしさ」を際立たせるために、青年たちをダーティ・ワード漬けにするというのは、もう病気である。強さは、それの暴走を抑える他の多くの美徳で防衛されていなければ、それだけでは尊敬に値しない。まず善良さ、そしてユーモアとか、寛大さとか、恥ずかしがりとか、愛嬌とかいったものがその美徳で、かつてアメリカが自信に満ちていた頃に作られた暴力映画のヒーローたちは、例えば西部劇がそうだったように、それらをたっぷり持っていることで健全と見なされていたのだ。

「フルメタル・ジャケット」を一つの頂点とするアメリカの暴力映画は、暴力描写からそれらの美徳をひとつひとつ削ぎ落して、今日に至っていると思う。

かくして精強なる「男の中の男」たちが作りあげられる。新兵たちは「殺人マシーン」に鍛えあげられて、ヴェトナムの前線に送られるのだ。映画の前半でも、主人公のひとりだったインテリっぽいジョーカー(シュー・モディーン)は、ヘルメットには「殺すために生まれてきた」などと書いて「殺人マシーン」ぶっているが、胸にはピース・マークを付けていて、上官からどんなに外せと言われても外さない。絶対服従にはならないのである。実はこのことは「殺人マシーン」にもなりきっていないのである。

ジョーカーは、フエ市でテト攻勢に遭遇し、そのクライマックスでは、ビルの中に隠れた狙撃兵に次々と戦友を倒される。そのビルにやっと突入してみると、意外やその狙撃兵はまだ少女のような可憐な女性なのだ。ジョーカーは一瞬ひるんで反撃され、彼の戦友が彼女を倒すのだ。そして、瀕死のその少女は「私を射て!」と叫び、ジョーカーはためらいながら、とどめを刺すのだった-------。

勇敢な敵の狙撃兵が、うら若い少女だったとわかる一瞬は、実に衝撃的だ。ダーティ・ワードで「男の中の男」になった「殺人マシーン」たちが、愛国的な情熱に燃えた一人の少女にかなわないのだ。ひたすら男らしさを賛美し、強さを誇ってきたアメリカの自信が揺らぐ一瞬だ。だから、そこには凄まじいサスペンスが生まれてくるのだ。

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他のレビュアーの感想・評価

じわじわきます、真の戦争映画

タイトルの「フルメタル・ジャケット」は鉛の弾丸をニッケルなど別の金属で覆った弾丸のこと。人を殺したくない、戦争は怖い、という普通の認識の人間が、戦闘マシーンとして「装甲」されていく、といった意味を含んでいて、興味深い。ブートキャンプでの訓練風景は「サー・ノー・サー!」のかけ声やハートメン軍曹のキャラ、出で立ちなどが、後のあらゆる分野において引用される、印象深いシーンだ。映像、物語としては地味で、脚本としてもグッドセンスなわけではないがゆえ、評価の分かれるところだと思うが、そもそもこの映画に「ハリウッド調」を求めるのは無理な話。後半、実戦場のシーンは音楽もほとんどなく、トラップの恐怖、ベトコンの恐怖に追い詰められていく隊員たちの姿が抑制的に捉えられ、はっきりいって、見てて相当怖いです。アメリカの「戦争映画」というと英雄譚、奇妙に濃いヒューマニズム、正当化を平気でやってのける、などの悪態が...この感想を読む

4.54.5
  • nyan_chunyan_chu
  • 142view
  • 427文字

そこそこ

面白いし美しい映画ですかね。前半部分は上官のデブ兵士に対するしごきがメインになるのですが、このしごきは見ていると辛くなりますね。「あーアメリカ軍もこんなしごき方をするんだ」と思い見てました。ただデブは主人公の助けをかりながらすこしずつ成長するのかと思いきやなんか狂ってしまいます。でもなんで狂ったのかという描写がないように思います。単純に訓練が嫌で、という理由なら主人公の助けの描写は不必要だし、自分が狙撃兵になれなかったからというのも兵士の配属が志願なのか強制なのかはっきりさせていないのでよくわかりませんね。後半は戦場のシーンがメインになるのですが、なにを描きたいのかわかりません。結局描き方はいつものアメリカ映画と同じように「アメリカの美化」に尽きると思います。最後に狙撃兵を倒したあと、たとえ敵でも情をもって接するという描き方が、途中にある農民たちをゲームでもしているかのように殺している...この感想を読む

4.04.0
  • clownclown
  • 118view
  • 512文字

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