夢と幸せ
違い
歴史小説が好きだったので、最初は水滸伝だった。中国三大奇書の内、水滸伝のみ全く触れてこなかった為、たまたま目に付いたので読んでみた。
ハマった。
ひたすらに読み耽り、三国志に手を伸ばした。
そして史記。
事前知識はまるで無し。
読み終わり、面白く感じたが首をひねった。
何かが足りない?
二度目、三度目と読み、はたと食事に気付く。
水滸伝は、それは美味そうな食事の描写があった。
魚肉饅頭、阮家の鍋、李逵の料理。
三国志は、張飛の野戦料理が印象深い。
が、史記。
湯餅、湯餅、湯餅。
蘇武の鍋は何か違う気がする。
同じ作者なのに。
同じ中国史が題材だというのに。
代わりに蘇端のサバイバル生活の描写はとても細かい。
水滸伝では王進が、三国志では馬超が山中を切り開く生活を送るが、比較にならないくらいに丁寧に描かれている。
この違いは、きっと理由がある。
登場人物
次に登場人物。
皇帝である劉徹は、飾り物に近い立場から、少しずつ力を手にし、やがて強大な権力を手にする。
宿敵である匈奴を漠北へと追いやり、西域との交易にも手を付ける。
望んだ未来をほぼ手にした彼は、本当に幸せだったのだろうか。
文中に、霍去病と二人で山に入り、狩をしたいと話すシーンがあるが、結局それは叶わない。
この後、霍去病が病死してから前漢は徐々におかしくなっていく。
中期の劉徹の変わりぶりは、きっと優秀な配下の力で、成功を積み重ね過ぎてしまった為、自身で自身の考え方を、動き方を変えてしまったからだろう。
それはまるで贅肉のように劉徹にまとわりつき、視界を塞いでしまった。
命令を下せば、それを叶える配下が初期の劉徹には居た為、そしてそれが劉徹にとっての成功体験になった為、無意識にそれをなぞってしまったのだろう。
後期にかけての劉徹は、まるで裸の王様だ。
死を悟り、贅肉が削げ落ちて、ようやく元に戻っても後の祭り。
一時の栄華は夢のまた夢だ。
また、衛青。
元々は奴隷同然の立場から、何の因果か劉徹に見出され、匈奴に対して連戦連勝。
気付けば大将軍まで登り詰める。
稀に見る大出世だが、晩年は李広の扱いにしくじった為、治りかけていた腕に傷を負い、望んでいた戦場に立つことなく、病に命を落とした。
衛士であった頃から見れば、羨む様な環境だが、死に際しての心残りを考えると、案外衛士のままでいた方が、気ままな人生を送れていたのかもしれない。
霍去病もまた、また、病に命を落としたが、本人的には衛青の後継として立った直後の突然死で、不幸を感じる前に死んでしまったので、あまり不幸とは言えないかも知れない。
その逆なのは匈奴だ。
衛青と霍去病によって散々に打ち破られ、漠北まで追い詰められるが、頭屠を筆頭に建て直された匈奴軍によって失った勢力を回復させる。
むしろ、軍としてはより強力になってしまった為、物語の後日談があれば、勝つのは非常に難しくなったであろう。
ただ、匈奴は元々の領土以上を求める事はなく見える為、付き合い方を間違えなければある意味平和になるのかもしれない。
匈奴軍の頂点に立った頭屠。
当初は衛青に、霍去病に負け続け、漠北に追いやられたが、家族を持ち、孫を抱き、はたから見れば幸せだろう。
ただ、本人的には、晩年の衛青に似た思いを抱えているように見える。
戦に生きた者は、戦の中で死にたいという思いがあるのだろうか。
李陵。
劉徹の為に戦い、国の為に戦うも、族滅で一族を失い、匈奴で生きる。
もしどこかで、もっと楽にものを考える事ができれば、また李広が自裁しなければ、劉徹の元で大将軍としての場があっただろう。
そして蘇武。
正直一番興味深く読んでいた。
徐々に充実し、快適になる生活は、前漢の民でも無く、匈奴の民でも無い。
作中でも書かれている通り、蘇武の国の民なのだろう。
司馬遷は、普通ならば普通なら不幸でしか無いであろう腐刑を受けたはずなのに、その後の人生はとても幸福に見える。
男としてのシンボルを失った事で、それまで無駄に抱えていたプライドや自尊心、こうあるべきという思いを一緒に無くした事が、自分に正直に生きるきっかになったのだろう。
桑弘羊、一貫して劉徹の理解者であり、友であり、臣であり続けたが、ある意味桑弘羊にとっての世界は、劉徹の側にしかなく、そう生きるしか無かった彼は、劉徹の被害者であり、ストックホルムシンドロームに近いものがあるような気がしてならない。
ざっと、主要登場人物に対する自分なりの見解を挙げてみたが、水滸伝や三国志に比べ、血湧き肉躍る描写が少なく感じた。
淡々と日常が過ぎて行く、その中で登場人物達は、歳をとり、環境の変化の中で自分を変えて行く。
テーマ性
ここまで書いてみて、勿論舞台が違うのだから、描写が変わって当然という、考えも頭をよぎった。
だが、だからこそ、伝えたいテーマが変わるのだともおもう。
水滸伝や三国志は、舞台は違うにせよ、国を作る物語。
反乱と建国の違い、国としてのあり方の違いはあれど、登場人物は信念を持ち、志という言葉で、それを表現している。
史記。
舞台は前漢と匈奴、そして北海の北の蘇武。
前漢と匈奴という、国と国の戦いの合間に、箸休めのような蘇武。
そこに志という言葉や思いは無く、各自の夢だけが飛び交っている。
三種の物語では、同じ様に描かれてはいるが、夢と志は似て非なるものだろう。
夢は自身の願望であり、願い。
志は自分が正しいと信じる、信念だ。
国は、世界はこうあるべきという登場人物が、その想いをぶつけ合うのが、水滸伝であり三国志なら、夢を語り合い、その実現に向けて進む物語が史記なのだろう。
他者から見える幸せや不幸せ、しかし本人はそれを他者とは違う見方で、違う感じ方をしている。
幸せは人それぞれである事を描いているのだろう。
そして、人間万事塞翁が馬、幸せに向かう道は、何かのきっかけで良くも悪くもなってしまう、そんな儚さも描いていると感じた。
冒頭に書いた、食事の描写の有無、それは美味い食事は、それだけで幸せになってしまう、そんな部分を削る事で、人生における幸せの描写を際立たせようとしたのかもしれない。
こじつけっぽいが。
最後に、蘇武の国。
とても丁寧に描かれていたが、これは北方謙三の夢だからでは無いだろうか。
いつか、こんな生活を、と思い、自分の夢を具体的に描いた、そんな気がする。
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