現在、過去、大過去と回想の断片を錯綜させ、響きと怒りに満ちたこの世のおぞましい地獄絵と人間の情念を描いた秀作 「天城越え」
この松本清張原作、三村晴彦監督の「天城越え」は、本物の映画だった。この映画は三村監督のデビュー作だが、おそらく彼が本当に作りたくて、何年間も執念を燃やし、親鳥が長い間、卵を抱いて孵化させるようにシナリオをじっとあたため続けてきたはずだと思うのです。
作品に対する、このような粘っこい執念や情熱といったものが、画面を通して観る者に確実に伝わってくるといった種類の映画だった。そして、この種の映画は、ひとりの監督でも、そうやたらと作れるものではないと思う。生涯に1本ないし2本作れるかどうかだと思います。
14歳の少年が、ひとりで天城越えをした。少年がひとり旅をするようになったのは、母の情事を目撃したからである。少年は、亡き父を裏切った母が許せなかった。少年にとって、それまで母は神であり、恋人であり、神聖な存在だった。その母が男に抱かれた。そんな母が、少年には許せない。母から逃れるために、彼は静岡の兄を頼って、ひとりで天城を越えようとしたのだった。
旅の中で、少年はひとりの女と知り合った。彼女はなぜか素足だった。女と話しながら、峠を歩くうちに、少年は、彼女の面差しに母の顔を二重映しにしていた。女は美しかった。女は、しかし、ひとりの土工に会うと、少年と別れ、土工と一緒に歩き出す。そして、二人が草むらの中で情交している姿を、少年は目撃する。
そして、土工が殺された。女が逮捕された。女は湯が島の売春宿の女で、一文無しで逃げた。土工と情交を重ねたのは、逃走資金欲しさのためであろう。事実、彼女は金を持っているうえに、土工の死体があった近くの永倉のオガ屑の上に九文半くらいの小さな足跡が残っていた。彼女の足の大きさも、九文半前後である-------。
このストーリーからもわかるように、これは原作者の松本清張版の「伊豆の踊子」だ。川端康成の「伊豆の踊子」は、旧制の一高生を主人公にして、伊豆を旅する旅芸人の一座の中の踊子にみせる淡い思慕をみずみずしく描き、過去にも繰り返し映画化されているが、この「天城越え」は、貧しい少年の目に映る娼婦の姿を描いているのです。
社会の底辺から、人間をじっと凝視するという、いかにも松本清張らしい短編小説だけれども、ミステリーとしての結晶度は、それほど高いとは思えません。そんな松本清張の原作を少年の目に映る娼婦というモチーフを使い、極めて結晶度の高い作品に仕立て上げたのが、三村晴彦監督なのです。
少年の目に映る娼婦は、永遠の女性です。男性にとって、永遠の女性は、常に自分の母親のイメージと、どこかで二重映しになっている。母親のそれとダブッた永遠の女性は、少年の目には限りなく美しいものに映る。心の中にあって、永遠の女性は、比類のない美しさで棲みつき、だからこそ、それは誰の手によっても汚されてはならない。神聖にして犯すべからざる存在なのです。
男性にとって、最初に接する異性は、母親だ。そして、思春期を迎え、現実に肉体的に接触する最初の女性は、かつて多くの場合、娼婦であった。このへんから、男性にとって、永遠の女性は、母親と娼婦が微妙に混淆したものとして存在するのだと思います。
峠の長い暗いトンネルの向こうに、少年は"雪国"ではなく、"地獄"を見るのだが、それも彼自身の手で描き出す響きと怒りに満ちたこの世のおぞましい地獄絵だ。
映画が始まるのは、それから三十数年後-------。この天城越えのエピソードは、現在、過去、大過去と回想の断片を錯綜させて語られていきます。オーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」以来、どんなに複雑な構成をもつ回想形式も珍しくはないのだが、「天城越え」には最初から故意に、ほとんど唐突なくらいに、大きなアナというか時間的な欠落が用意され、その深く大きな空白の時間をラストの三十分-------死に直面した主人公の懺悔のような"主観的回想"で埋めるという形になっている。
そのラストの三十分で、主人公(平幹二朗、少年時代は伊藤洋一)の《バラの蕾》とは一体何であったのか(主人公の手にしっかりと握られていた思い出のマッチが、死の寸前に開かれた手からポトリと落ちる)、少年の見た地獄とは何であったのかの謎が解明され、その謎解きのためにエモーショナルなサスペンスが高められていくのです。
と言っても、プロットの上では、実は謎はないのだ。主人公が三十数年前の"天城山の土工殺し"の事件の当事者であることは、映画の冒頭のワン・カットではっきりと明かしてしまっているのだ。残された謎はただひとつ、少年が天城峠で出会った女なのです-------。
三村監督は、この作品について「天城越えは母恋物語です。旅の女ハナへの憧れは、母への憎悪と同じものなのです」と語っていて、このことからも、この作品がストーリーの意外性や犯人探しの推理の面白さを狙ったサスペンスではないということがわかります。少年の心の高まり、生理と官能の震えの中で捉えられた"女のイメージ"のサスペンスと言ったらいいのかも知れません。
ヒロインの旅の女ハナを演じた田中裕子は、圧倒的な素晴らしさで、この上なく汚辱にまみれた瞬間に、この上なく崇高な表情を見せます。土工殺しの容疑で逮捕され、取調室でハバカリに行くことを禁じられ、屈辱の小水をもらすシーンは、それまでほとんど見られなかった女の姿を、見事に感動的に演じていました。カメラは田中裕子の一瞬の表情を捉えるのです。その目に涙はありません。ただ、取調べの刑事たちに対して"人でなし"という小さな叫び"がもれるのです。
そして、雨の中を護送車に引きたてられる田中裕子が少年を見つけて、ふっと"菩薩の表情"で全てを語るワン・カットが、少年の、そして三村監督の万感の思いを込めたスローモーションのイメージで、連続三回繰り返して画面をよぎります。
まさにこの美しいワン・カットだけでも、この三村晴彦第一回監督作品は長く私の記憶の中に残り続けていくと思います。それは、田中裕子という女優に、「西鶴一代女」の田中絹代から、「清作の妻」の若尾文子、「曽根崎心中」の梶芽衣子に至るすべての女性映画の名作の忘れがたいヒロインたちを、更に現代的に鮮烈に演じられるに違いないという無限の可能性を約束するワン・カットなのです。
とにかく、この「天城越え」という映画は、すみからすみまで田中裕子という女優に捧げられた映画なのだと思います。
そして、色彩的にはグリーンが実に美しい。映画がカラーであることが当たり前になっている中で、久しぶりに色彩なくしては考えられない"映画の肌ざわり"みたいなものを感じさせてくれました。特に、陰惨な殺人事件の血にまみれた現場の背景になる、天城山中の木々の鮮やかな緑といった、グリーンの強烈な色調が印象的で、そのグリーンのイメージが田中裕子の女の官能的なニュアンスを匂うように画面に浮き上がらせる効果を出しているのだと思います。
そして、山の中で日が暮れて、ひとりぼっちで心細くなった少年の目の前に、不意に現われてくる田中裕子の顔や首筋に塗られた白粉、吹き流しにかぶった白い手拭い、赤い蹴出しからのぞいた白い裸足の白のイメージの衝撃。山の中の緑がみるみる夜の闇に吸収されて沈んでいく瞬間の背景の、深く濃い色調が実に素晴らしい。
アルバート・ルーインの「パンドラ」やアルフレッド・ヒッチコックの「めまい」やフランソワ・トリュフォーの「終電車」を引き合いに出すまでもなく、グリーンは夜への誘惑の色なのです。「天城を越える過去が重要なポイントなので、これをいかに美しく際立った映像にするか留意した」ことを撮影の羽方義昌は語っていますが、このグリーンを基調にした色彩設計の素晴らしさは、数ある日本映画の中でも傑出して素晴らしかったと思います。
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