登場人物ひとりひとりの息づかいまで聞こえる名作 - 歩兵の本領の感想

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歩兵の本領

4.904.90
文章力
5.00
ストーリー
4.50
キャラクター
5.00
設定
4.50
演出
3.00
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登場人物ひとりひとりの息づかいまで聞こえる名作

4.94.9
文章力
5.0
ストーリー
4.5
キャラクター
5.0
設定
4.5
演出
3.0

目次

浅田の本領

稀代のストーリーテラーとして不動の地位を築いている作者が綴る自衛隊での生活とはどんなものか。期待してページをめくるとそこにいたのは自衛隊しか行き場のない一人の若者だった。筆者が自衛官経験者であるのは有名だが、大多数の読者の共感を得るためにこのような設定にしたのではないだろうか?筆者のように自ら望んで駐屯地の生活を経験したいという若者は今も昔も稀だからだ。多くの若者は生活のため、または安定のためというのが本音だろう。それはともかく、筆者にとってこれを書き上げるほど容易い仕事はなかったのではないだろうか?事実は小説より奇なりというが、駐屯地で起こることそれ自体が、世間一般の生活をしている人から見ればドラマのようなものだろう。しかしそれにしても目を瞠ったのは筆者の人間観察眼だ。実際に駐屯地の生活を経験したと言っても、それを小説として読ませるには一人一人の登場人物の思考を忖度できなければつとまりはしまい。ここにこそ作者を今の地位に押し上げた理由があるに違いない。

教育とは?

入隊予定者と自衛隊の勧誘員が食事をしている場面があり、勧誘員は自分の足の速さをその若者に伝える。もちろん暗に逃げないように諭しているのだが、このことから感じることがある。人は、果たして自分の進みたくない道を歩いたとしても幸せになれるのだろうか?この場面から暗い感じを受けないのは、私自身が自衛隊で行われる教育を好意的に見ているからだろう。このことはヤクザの子分だったある新入隊員が言ったこの言葉からもうかがえる。ヤクザは殴ったら殴りっぱなしだが、自衛隊は殴った分だけのことは教えてくれる。これを教育と呼ぶべきか洗脳と呼ぶべきかはともかく、組織には組織の掟があり、それを破れば制裁がある。これは一般企業でも変わりはすまい。そう思えば、大学を出ても大企業であればどこでもいいから入社したいという思いしか持てない現代の一部の若者と、ただ食い詰めて自衛官になる昭和の若者にさしたる違いは無いだろう。そこにある思いは安定してご飯が食べられるかどうかだけなのだから。人にはそれぞれ思いがあり、その思いを達成するために有益なものは教育、無益または思いそのものを変えるものを洗脳と呼ぶ。したがって、本人の思いが周囲と摩擦を起こさず安定してご飯を食べたいというものならばそのためのルールを教えることは教育と呼べる。しかし本人の思いがその他のことにあるのであれば、先ほど教育と呼んだものが洗脳に変わることもある。さきほど私は、人は、果たして自分の進みたくない道を歩いたとしても幸せになれるのだろうかと問題を提起したが、もしも本来の進みたかった道を完璧に忘れることができるのであれば幸せになれるだろう。しかしながら喉に小骨が詰まった状態を人は幸せとは呼ばないだろう。

彼らは幸せなのだろうか?

これをマズローの欲求五段階説に当てはめて考えてみるとまず第一階層の「生理的欲求」はクリアする。次の「安全欲求」に関しても問題はないだろう。一朝事あれば別との注釈はつくが・・・。次の階層である「社会的欲求(帰属欲求)」についてはどうだろう。なにしろトイレ以外は全て誰かと居るような駐屯地での生活なのだ。さみしいなんて考えはおくびにも出ないだろう。次に第四階層であるがこれは「尊厳欲求(承認欲求)」と呼ばれ、他者に自分の価値を認めてもらいたいというものである。これについて作者は、「自衛隊は勲(いさおし)なき軍隊である」と述べている。この言葉の解釈はいささか難しいように思う。何しろ作者の日本語力は小説家レベル、中国語と漢詩にも明るいという漢字のスペシャリストなのだ。したがって私は漢語林を紐解く。どうやらこれは手がらとの意らしい。なるほど手柄がないのであれば他者から自分の価値をいまだ認められていないと言えるだろう。もちろん災害時の自衛官の働きは誰もが認めるものと思うが、この度は国際平和への貢献という視点のみから論を進めたい。

戦火を交えていないということ

だんだんと小説のレビューらしからぬ話となってきたが、もう少しだけお付き合いいただきたい。万が一日本が戦争を始めた場合、当然兵隊たちは第二階層の安全欲求すら満たせなくなるだろう。インパール作戦の例もあるため第一階層の生理的欲求すら危ないかもしれない。しかし第四階層の尊厳欲求については今以上に満たされることだろう。彼らの持つジレンマというものは結局これに尽きるのではないか?1,2,3段階の欲求が満たされれば次は4段階めの尊厳欲求(承認欲求)となるが、これを満たすには自らの1,2段階の欲求を放棄しなければ国民から理解をしてもらえない。考えてみればこれほど悲しい話はない。この小説の最後、一人の男が自衛隊を辞めて駐屯地を出る。彼の姿は、作者自身の若き日の姿に見える。そしてこの作品は、作者が青春時代を過ごした自衛隊に対する、作者からのお礼状に感じてならない。

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