孤独な島と孤独な男の恐怖物語
若干の読みにくさが否めない上巻
この「悪霊の島」は、上下巻ある長編物語である。物語の長さから言うと、「リーシーの物語」や「11/22/63」と同じくらいだと思う。そしてこの主に上巻のほうは翻訳本独特の読みにくさが多く、読み進めていくのに若干のつらさを感じた。この傾向は最近では「リーシーの物語」で特に顕著に感じられ、昔のスティーブン・キングの作品には感じられなかったことから、最近の彼の文章自体が翻訳者泣かせのものなのかもしれない。そう感じる理由のいくつかの一つが、スペイン語を織り交ぜて話すワイアマンのセリフの書きかたにあると思う。日本語の横にルビでスペイン語の発音を併記することでなんとなくの異国感は感じられるものの、読み手としてはそのペースをどうしても乱されてしまう。本当に物語に入り込んでいるときは、文字とか漢字とかいったものがその枠を超え意識せずに頭の中に像を結んでいるので、その文章に変に引っかかりを感じるとその映像が止まってしまうのだ。そうすると素に戻ってしまう上に、不本意ながらもその文章を読み直してしまい、アクセントはどこだろうかと別の興味が沸いたりなどして、物語の本筋から外れてしまうのだ。だからあの日本語の横に外国語のルビを振る形はあまり好きではない。ただ英語で韻を踏んでいるために必要なルビなら仕方がないとは思うが、あまりあの形にはメリットは感じられないと思う。ただこの読みにくさは上巻に多く、下巻にはあまり感じられなかったのがせめてもの救いだった。
とはいえ、読みにくくてあきらめるにはストーリーにパワーと魅力がありすぎて、やめる訳にはいかない面白さは確実にあった。
絶望続きだった男と絶望から立ち直った男の出会い
建設業者として一財産を築きながらもクレーンの事故で右腕を失った男性エドガーが主人公である。また不幸はそれだけでなく、回復期までに妻に働いた乱暴な行動が元で(これは事故による脳の誤作動である理由が大きい)、離婚までも言い渡されてしまった。ここですっぱりと離婚を言い渡す妻がいかにもアメリカ流で、自分に利益をもたらさないものは排除といったような情のなさが感じられる。首を絞められた恐怖はあるにせよ、その相手は片腕で半身は不随に近い不幸な事故にあった夫ということに彼女にはなんの情も感じなかったのだろうか。このあたりの展開はいかにもアメリカ流でカルチャーショックでもあった。
そういう顛末で右腕と妻を失い、エドガーはリゾート地で一軒家を借り、そこで自分を立て直す計画をたてる。そのように悲しい場所を離れ、美しいとさえいえる隠れ家で自分と向き合おうとする展開は、「ジンシャーブレッド・ガール」の赤ん坊を亡くした女性の取った行動とよく似ている。彼女はその隠れ家で事件に巻き込まれ、エドガーもその同じ道をたどる。
自らを鼓舞しながら厳しい生活を続ける中、エドガーは2つの安楽に満ちたものと手に入れる。“絵を描くこと”と“新しい友人ワイアマン”だ。絵を描くことは彼の厳しい現実を忘れさせ(その能力はその厳しさによって手に入れたものだということはすぐわかるのだけど)、ワイアマンはエドガーにとってはかけがえのない存在となる。そしてワイアマン自身も哀しい過去を持つ男だった。この2人の友情に満ちた会話はテンポもよく、“友情感動もの”によくあるようなインチキくささもなく、この物語のいいところの一つだ。
ワイアマンの魅力
この物語にはたくさんの人物(生きているのも死んでいるのも)が登場してくるけれど、このワイアマンはエドガーにつぐ準主役で実にいい味を出している人物だ。世の中を斜に見ているようなシニカルなしゃべり方は、その片方の唇をあげてしゃべっている様子が目に浮かぶようだ。そしてここが大事なところだけど、決してかっこよすぎない。あまりかっこよすぎるとリアルではなくなってしまう気がしてしまうのだけど、この男の持ち味であるクールなシニカルさを台無しにしない程度に鈍臭かったりするところがまたよい。そしてこの二人の出会いがなければパーシーを仕留めることはまずできなかったと思うし、エドガーもここまで立ち直ることが出来なかったに違いない。
また彼自身が世話している高齢のミス・イーストレイクを愛していることも彼の人格の素晴らしさを深めたと思う。ワイアマンとミス・イーストレイクの会話はまるで詩を読むような味と深みがあり、二人が年の差こそあれ、愛し合っていることがよくわかる。
ただ、ワイアマンがエドガーに治される前に持っていた、一種の“シャイニング”のような才能はもっと生かされてもよかったのではないかと思う。さほどそれを見せる前にエドガーが彼をすっかり治してしまったので、それは少し残念だった。逆に治されたことによってその“シャイニング”が切れ味を増すという設定でもよかったかなと思った。
アメリカンホラーとジャパニーズホラー
これは文化の違いというしかない。生まれ育った土地の怪談のほうが怖く感じるのか、それとも純粋に日本の怪談の方がもっとも原始的な恐怖を感じさせるからなのか、どうしても日本人にとっては日本のホラーのほうが怖いのは仕方のないことだ。その上日本人は「オーメン」や「エクソシスト」などに共通する宗教的背景もないため、あくまで映像だけでの怖さしか感じられないのも残念に感じるところだ。この物語に出てくる恐怖をもたらすものも、ゾンビや吸血鬼を彷彿とさせる、いくら腐敗しているとはいえ実在の体をもつ化け物であり、グロテスクさはあれど日本人の恐怖の琴線には触れない。土葬の文化があるからこそ恐怖を感じられるこの恐怖対象は、スティーブン・キングの作品ではよく出てくる。そのたびに理解できないもどかしさと勿体無さを感じてしまうのだ(同じようなゾンビの話でも「ペット・セマタリー」のような、根底に哀しさと愛情がある場合はそこに感情移入してしまう。あれは恐怖というよりは、切なくて哀しさが先にたってしまった。あれはもしかしたら日本人好みのホラーなのかもしれない)。
だからこそ「悪霊の島」で怖かったのはエドガーの部屋に残された双子と義兄の足跡とメッセージだった。あれは中々背筋をぞっとさせるものだったけれど、彼らが実在のものとなってエドガーたちを襲うあたりはどうにもテンションが下がってしまったことは言うまでもない。
少々尻すぼみ気味だったラスト
パーシーを倒したと思いきや、殺されたエドガーの愛娘イルサ(彼がメリンダよりもイルサを愛していたのは、メリンダが母親に似すぎていることが原因ではないだろうか。ミス・イーストレイクが個展でタバコを吸ったときのメリンダの態度はパムを彷彿とさせた。そして神経を苛立たせる)砂の化身となって表れたところはいささかB級に感じた。話の展開から、前述した「ペット・セマタリー」のように彼女を生き返らせるのかとハラハラしていたのだけど、結果ただ銀のブレスレットで彼女を砂に還し悲しみさえさほどではなかったところに、若干ストーリーを早く終わらせたがっているような焦燥感を感じたからだ。もしかしたらあれはイルサでなく、パーシーの最後のあがきだったのかもしれないが、それにしてもそれまでの壮大なストーリー展開からすると少し物足りなさは感じてしまった。
また「ショーシャンクの空に」のように二人の男性は共にハッピーエンドになって欲しかったのに、ワイアマンはあっけなく心臓発作で死んでしまったのも個人的には残念でならない。
全体的にはキングホラーを堪能できる作品であるには違いないけれど、これよりはもっと質のいい彼の作品は他にもあると感じた作品だった。
あと邦題である「悪霊の島」はあまりにチープな感じが否めない。かといって原題の「Duma Key」もわかりにくいかもしれない。もしそうならエドガーの書いた絵のタイトルである「デュマからの眺め」や彼の住む家の愛称「Big Pink」とかはどうなのかなと考えてしまうくらい、このタイトルはもうひとつのように思った。
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