いろいろな風味のキング作品が味わえる短編集
目次
原題「Just After Sunset」からの7つの話
この「夕暮れを過ぎて」は、原題「Just After Sunset」から2分冊されたうちの1冊で、もう一冊のほうは「夜がはじまるとき」というタイトルで別でまとめられている。「夜がはじまるとき」は、この「夕暮れを過ぎて」よりも恐ろしく、容赦のないホラーで温かみなどまるでないけれどもキングらしさを味わえる作品となっている。またこの二つのタイトルの意味も、夜が深まっていくにつれ話が恐ろしくなっていくようになっていて、訳者のセンスのいい遊び心が感じられる。
この「夕暮れを過ぎて」はホラー色の強い「夜がはじまるとき」に比べて、それは幾分穏やかでその分温かみや切なさを感じることができる物語が多く収められている。「夜がはじまるとき」に収められていたトラウマを残すような物語はないのは怖いもの見たさ的には残念だけど、その代わりそこにはない哀しみや愛情などといった一味違う物語を味わうことができる。
この2分冊の物語のチョイスはうまくできていると感じた。
思いがけない展開の「ウィラ」
どういう理由でかわからないけれど、駅に取り残された乗客たちの苛立ちと困惑の描写から始まるこの物語は、まったく状況がわからないため余計に話の先が気になる展開に感じられて、一気に読んでしまった。乗客の一人ディビットは婚約者ウィラがいつのまにかいなくなっていたことに気づく。奔放な彼女は、退屈な乗客たちと共にこんなしけた駅(文字通り湿気たクラッカーの匂いがするらしいが、その匂いが想像できるところがうれしかった。アメリカの食べ物ならわからない食べ物もあったろうし、こういう比喩がわからないことは結構つらい。でもそれは翻訳本ではよくあることだ)に閉じ込められたまま無為に時間を過ごすことこそあり得ないと感じたのか、一人でバーを探しに離れたのだ。その自由さで私はこのウィラにたちまち好感を持った。こういう状況でも自分の希望を一番に通すことのできる気持ちと、それに誰も巻き込まない潔さ(ディビッドは別として)が私にはないからだ。うらやましいなと思いつつ先を読んだ。
ディビッドは他の乗客の制止をふりきり(主にオオカミが出るということだったけれど。それも本当はまるで関係なかったことがあとでわかる)ウィラを探しに出かけた彼は、しばらく歩いて見つけたバーでウィラを見つけることができた。周囲の騒々しさとは裏腹に、ウィラの周りを包む空気に静かさを感じた違和感が、結局ストーリーの全てを物語っていた。このような直感的な違和感は映画なり小説なりを観たり読んだりしているときに、時々感じることがある。そしてそれが的中したりストーリーの肝を表していたりすると、ちょっと得意な気分になったりする楽しみがある。結局この駅に残されていた乗客たちは列車の事故で死亡した人々の霊だったのだ。あの時にウィラに感じた静かさは、周りの人々から見えていない透明さによるものだったのだ。
そうだったのかと思うのと同時に、スティーブン・キングの秀逸な文章能力を感じた。そういったことを示す言葉は一切使われていないのに、そう感じさせることこそ小説家ならではだと思うからだ。
すこし寂しいラストだったけれど、彼らにとってはハッピーエンドだったのだと思える味のあるラストだった。
読み応えのある中編「ジンジャーブレッド・ガール」
おばあさんのオーブンから食べられないように逃げ出した、というジンジャーブレッド・マンの童話のタイトルを文字ったこの物語は、そのようなほんわかした話から一番遠いところにある内容だと思う。主人公のエミリーは赤ん坊を亡くしたばかり。立ち直るきっかけとなった“走ること”に取り付かれてしまっている、健康ながらもいささか不健康な女性である。夫とは赤ん坊の死後うまくいっておらず、自身の悲しみにどうしたらいいのかわからないくらいに飲み込まれていて、自分の父親の持ち物であるささやかな別荘で、“夫婦の冷却期間”という名の別居生活を送っている。
この夫ヘンリーは、基本的な想像力が欠如しているのか、相手の気持ちを察する能力を忘れてきたのか、もしかしたらその両方なのか、絶望的にエミリーの気持ちがわかっていない。子を亡くした気持ちは母親のほうが上ということは一概には言えないと思うけれど、この二人のパターンからするとそうとしか思えない。そのような夫と一緒に住むことは恐らくできないだろうし、別居を選んだエミリーの選択は正しいと思う。しかしそれによって恐ろしい事件に巻き込まれていくのは想像もしていなかっただろう。女性が暴行の被害に合って命からがら逃げ出すストーリーはキングの作品でも多く見られるが(「ビッグ・ドライバー」、「ローズ・マダー」etc)でも思い切り相手を懲らしめる今までのラストでなく、相手の弱点だった“泳げないこと”が功を奏し、溺死させるというのは少し弱いようにも思った。何人もの女性を殺し、エミリーを助けてくれようとしたメキシカンも惨殺し、そんな男が溺死するだけでは足りないと思ったのだ。ここまでのストーリー展開は良かったのだけど、このラストがどうしても気に入らなかった。
もっと言えば、巻き込まれて殺された、助けてくれようとしたメキシカンに対して、もう少し哀悼の意があってもいいとも思った(ペリカンに声をかける余裕があるのならばということだけど)し、助かった直後が余裕すぎるような気がしたのだ。
もしかしたら人は命が助かった直後こういう態度になることがリアルなのかもしれないけれど、私にはそうは感じられなかったラストだった。
スティーブン・キング自身の夢から作られた物語
キングが語っていることによると、自身の夢から物語ができるのは決して珍しいことではないらしい。その夢から出来た物語がこの本には2つ収められている。「ハーヴィーの夢」と「卒業の午後」だ。特に「ハーヴィーの夢」は夢をそのまま描いたようなものだとキングは語っている。その言葉通り、この物語はこちらもその夢を見ているようないささか揺らめいた気分になる文章に満ちている。特に夢の中でしゃべっている言葉の再現などは、英語であるにもかかわらず鳥肌がたつものだった。不吉な予感で終わるラストもキングらしいし、全体的に漂う気持ち悪さと後味の悪さもキング独特の一流のものだ。小さな物語だけど、なにかしら印象に残る話だった。
もうひとつの「卒業の午後」は、ニューヨークに核爆弾が落ちるものだけれど、キングはこれをドラッグ中毒とも思しき状態の夢(もしくは幻覚)で見たらしい。彼は1999年に大事故に巻き込まれ瀕死の重傷を負って奇跡的に復活を遂げたのだけど、その際の薬がやめられなくなった結果らしい(ちなみに彼は「クージョ」をほぼ薬による酩酊状態で書き上げたというのだから、すごいという他ない)。そういう薬にもたらされた幻覚でさえ、彼の小説の糧になるうるのだなと妙な感慨を受けた作品だった。
ユニークな想像力の素晴らしさを感じさせる「エアロバイク」
コレステロールの数値を気にしだした主人公シフキッツが、架空(であるはず)の自らの体内で働いている作業員を絵に描き、その前でエアロバイクをこいでいるうちにその絵の中の世界に入り込んでしまうという、キングお得意の「絵の中の世界」「変化する絵」のストーリーである。こいでいるうちに体重もコレステロールも落ちていき、シフキッツにとっては素晴らしいことなのだけど、体内の作業員たちの仕事はどんどん減っていく。いわば稼げなくなるわけだ。作業員たちにも妻も子もおり、稼げないことには子供を病院にやることも自身のコルセットを買うこともできない。挙句の果てには一人は自殺してしまう。架空の世界で起こっていることなのに、限りなくリアルで、シフキッツは罪の意識さえも覚える。
最後シフキッツに物申してきた作業員たちが激昂しないのもいい。淡々と要望を伝え、そのことでそれが果たされることを分かっている様子に、これまたリアリティを感じた。
要はなにごともやりすぎないように程ほどに。ラストのこの言葉もユーモアにあふれており、個人的には一番好きな話だった。
全体的にうまくまとまった短編集
キング特有のホラーも楽しめるし、悲しさが昇華される心地よさを感じる物語もあるし、いろいろな味を楽しめるチョコレートの箱といった感じのこの本は、気軽にスティーブン・キングの世界を楽しめるものだと思う。
いわゆる中毒性のようなものもあるし、「夜がはじまるとき」もセットにして本棚に並べておきたいなと思わせるものだった。
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