菊池寛は女性を愛してくれた
女性を愛してやまない菊池寛
男性のために人生を狂わされ猛烈に反抗して太く短い生涯を駆け抜けた女の物語。封建的な時代に男の後ろに控え、まるで家畜のごとく従順で学問もさせられず、暗闇の中に閉じ込められて来た女性の自我の成長と精神的解放への、応援歌でもある。男顔負けの知性と精神力を備え、男性をコテンパンにやっつけてなお眉ひとつ動かさずに婉然と笑う美女が、よく出てくるのだが、こうした女性の姿を、「成熟した文明特有の女性」と、作中では表現されている。菊池寛は、こうした堂々たる女性が日本の大半を占めるようになり、仕事においても家庭においても男性と対等に生きることができるようにと、常々願っていたのだろう。私は1人の女性として、菊池寛のこの、女への細やかな情けと愛情深い眼差しを、本書を通して感じた。歴々たるメンバーを集めたサロンで、文豪に関する議論を戦わし、その中央に女性が座っている、などという構図は、当時の文壇における女性不在の現状を揶揄するような仕掛けも込められていたと思う。物語の形式をとりながらも、現状を考えせしめるような描写が、随時に散りばめられていて、当時の社会の風潮を知る手がかりにもなっている。
ドキドキするサロンでの議論
先ほども触れたサロンでの議論が興味深い。題目は、明治時代を代表する文豪はだれか、というものなのだが、ここで交わされた議論の内容が非常に興味深かった。主人公に近い位置づけである信一郎は尾崎紅葉を推すのであるが、後から参戦した皮肉らしい文壇の寵児、作家の秋本によって冷笑と共に否定され、彼は樋口一葉を推したのだ。女性に良い格好を見せて褒められるために戦わせる中身のない議論とは言え、普段の菊池寛の見解が表されているようにも思った。つまり文学は芸術的であるべきなのか、皆が楽しめる通俗的なものであるべきなのか、という問題を含んでいるのだ。菊池寛はどちらかに偏ることを否定しているように感じる。通俗的なものを突き詰めれば芸術的になるのであり、また、芸術的なものも皆が知り社会に浸透すればそれは通俗的となるのだ、と信一郎に言わしめている。文壇においてどちらが優れているとかいう狭量な考えをやめ、どちらを目指すものも社会や人々の一助となるよう切磋琢磨しようじゃありませんか、という、当時の作家たちへの暗示にも読めるのだ。そう考えると、この場で繰り広げられていた議論は、案外、実際に菊池寛が参加する作家たちのグループで、交わされたものではないかと思えてくる。となれば、信一郎と交わした議論を述べた人物は、実際にその意見を述べた作家の外見デフォルメしていたりするのではないか、果たしてそれをご本人が読んでいたら、どんな気がしたろうかと、ドキドキしてくるのである。
全てを愛した菊池寛
そう考えると、菊池寛は作家たち見解の相違も、女性たちの躍進も、男性たちの情けなさや汚さも、封建的な殻を残す日本の在り方も、全てを否定せず愛していたのではないかと思える。当時の日本に席巻しつつあった拝金主義を象徴する荘田という赤ら顔の悪役ですら、100%の悪としては描かなかった。頑固な瑠璃子の父すらも、最後には自らの封建的なこだわりを悔いて考えを改める場面が出てくる。人間は根本的には変わることはできないが、人としては、皆基本的に美しい性質を持っているし良い方へも悪い方へも変わっていくこともある。封建時代、江戸時代を捨て去るメリットもデメリットも何もかもを飲み込んで、日本は文明化すべきだ、進んでいくべきだ、いきましょう、紳士淑女諸君!というあたたかな呼びかけを、感じたのである。
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