「ありのまま」の自分で - ヘドウィグ・アンド・アングリーインチの感想

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「ありのまま」の自分で

5.05.0
映像
5.0
脚本
4.0
キャスト
5.0
音楽
5.0
演出
4.0

目次

引き裂かれた町の「あちら側」で生まれ育ったヘドウィグ

冷戦中の東ベルリンで生まれ育ったハンセル。ラジオでアメリカのロックを聴いて育ち、いつかは自分も自由を手にしてロックンローラーになりたいと願っている。

西に対する東。この対比はとてもわかりやすい。壁のむこうに見えるマクドナルドの看板の象徴する「自由」、さらにそれらの濃厚なエキスであるロックに憧れるハンセル少年。性転換をし、ヘドウィグと名を変えアメリカに渡り、かつての憧れの「自由」の中に身を置く彼(彼女)は、自分の生まれた東ベルリンを「あちら側」と呼んで歌う。

そして歌の中にあるように、ヘドウィグはこちらとあちらの間にある「壁」であり、「橋」である。ヘドウィグはこちらとあちらにそれぞれ片足を入れながら不安定に聳え立つ「あいだの象徴」なのだ。叫ぶように自らの過去や境遇を歌うヘドウィグの姿は、ストーリーを追うごとにその内に育った疑問や悲しみを際立たせ始める。

「もう一人のヘドウィグ」であるイツハクの存在

映画では省かれてしまっている重要なシーンがある。イツハクとの過去だ。冒頭の歌が終わった後に、イツハクが一人部屋でカツラをかぶろうとしているところにヘドウィグが入って来て慌てて脱ぐシーンがある。ここには二人のとある過去が絡んでいる。

ヘドウィグの夫であるイツハクは元々、人気のあるドラッグクイーンだった。ヘドウィグに恋をして結婚を申し込むが、それを受ける条件としてヘドウィグが出したのが「二度とカツラをかぶらないこと」だった。それが上記のシーンへと意味を繋ぐ。

その条件を、人気のあるイツハクに対するヘドウィグの嫉妬と言ってしまえばそこで終わってしまう。ヘドウィグは不安定な自分を支える存在として、イツハクに陰陽の「陰」の役割を課したのではないか。男から女へと半端な変身を遂げた自分に対するものとして、女装を解いた男性という、アイデンティティーを捨て去った「何者でもない」イツハク(役の上ではイツハクは男性だが、実際は女優――ミリアム・ショアが演じている)。

ヘドウィグは「半端な1インチ」を用いてイツハクと形だけのセックスをする。もちろん二人に満足感はない。ヘドウィグは半端な存在である自分に対し、イツハクにも半端であることを強いているともとれる。イツハクはヘドウィグの鏡像であり、もう一人の自分なのだ。

プラトンの饗宴による「片割れ探し」の結末

プラトンの饗宴による「愛の起源」を歌う場面は、映画史上に残る名シーンである。かつて背中合わせにくっついていた人間は愛を知らなかった。人間の強さや傲慢さに辟易した神々は、その体を引き裂くことにした。わたしたちは引き裂かれたかつての片割れを求めることで愛を知り、元に戻ろうとしてセックスをするのだと。

これはこの映画全体のテーマだ。ヘドウィグは失った「片割れ」を求める。そうして二人の男に愛を注ぐ。そのたびにヘドウィグは手ひどく傷つくことになる。

軍曹のルーサーと結婚し自由を手にするために代償として故国に置いていった6インチのペニスは、怒りの1インチを生涯ヘドウィグの肉体に残す。新しい恋人と共に出て行くルーサーを見送ると、テレビではかつて絶対的にヘドウィグの前に立ちはだかっていたベルリンの壁崩壊の場面が映し出される。

心の恋人トミーは、ヘドウィグの音楽に関する知識とともに「愛」を大いなる贈り物としてヘドウィグより受け取った。それにも関わらず、ヘドウィグの書いた曲を自分のものにして売り出し、スターになるヘドウィグは愛を求めるたびに奪われ、傷つく。どこかにいる片割れを探し求めているだけなのに。だがその考えこそがヘドウィグを縛り付けていたのだと、私たちは最後に気づかされる。

映画の終わりに近いところで、ヘドウィグはかつての教え子であり恋人でもあったトミーの歌を聞き、一つの答えを得る。そうしてイツハクにカツラをかぶることを許す。イツハクは女性の姿となってファンの熱狂の渦の中にダイブする。監督兼主演のジョン・キャメロン・ミッチェルへのインタビューによると、この姿を女装した男性か、完全な女性と捉えるかは見た人の解釈に任せるということだが、これはどちらでも大差はないのではないか。重要なのは、ヘドウィグがイツハクを「陰」の存在から解き放ったということ――イツハクをその存在だけで「完璧」だと認めたということだ。それはヘドウィグ自身にもあてはまる。

「引き裂かれた二人」を表す腰のタトゥーが、ラストシーンでは融合し、一人の顔になっている。それがそのままこの映画の答えだ。ヘドウィグは半端ではなかった。男性性を失い、女性にもなれず、半端な1インチを股間に抱えたまま、そのありのままの姿で完璧なのだという希望に満ちた気づき。全裸で裏路地を歩くヘドウィグは、街の光へ向かっていく。ヘドウィグがこの答えを得るまでに味わったさまざまな痛みや感情が、その背中で妖しく光る。この答え自体に、世界は厳しいかもしれない。それでも答えを得たヘドウィグは、もう迷わない。

彼(彼女)なら大丈夫。一番大事なことに辿り着けたから。そう思わずにはいられない。飾らないヘドウィグの中に生まれた、悲しみを含んだかすかな希望。胸に迫るラストだ。

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かわいい彼女に何度でも会いたくなる

私は多分、ヘドウィグに恋をしていたのかもしれない 一度見たときの衝撃は忘れられない。初めて見たときは恐らく意味がよく分かっていなかったのだと思う。 エンディングなんかは、え? どういうこと? 裸で歩いて行くってなに? って感じだったから。でも見た後の衝撃だけは残っていて、あの風変わりな顔をことあるごとに思い出していた。 数年が経ち、もう一度あの映画を見たいと、DVDを借りて見てみた。二度目の衝撃。やはり、健在であった。 分からない部分が取り払われ、頭の中でこういうことだったんだ、というぼやーんとしたものが渦巻いた。でも、言葉にできない。 それに、なんといえばいいのだろう、あの女性以上に女性らしいしぐさ、嫉妬に狂う姿、悲しむ姿など、全てが愛おしく見えてしまう。 恐らく私は、ヘドウィグに恋をしたんだと思う。  劇中歌 ヘドウィグアンドアングリーインチは、なんといっても劇中歌が素晴らしい。怒...この感想を読む

5.05.0
  • ゆっこゆっこ
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