かわいい彼女に何度でも会いたくなる - ヘドウィグ・アンド・アングリーインチの感想

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かわいい彼女に何度でも会いたくなる

5.05.0
映像
4.5
脚本
5.0
キャスト
5.0
音楽
5.0
演出
4.0

目次

私は多分、ヘドウィグに恋をしていたのかもしれない

 一度見たときの衝撃は忘れられない。

初めて見たときは恐らく意味がよく分かっていなかったのだと思う。

 

エンディングなんかは、え? どういうこと? 裸で歩いて行くってなに? って感じだったから。

でも見た後の衝撃だけは残っていて、あの風変わりな顔をことあるごとに思い出していた。

 

数年が経ち、もう一度あの映画を見たいと、DVDを借りて見てみた。

二度目の衝撃。やはり、健在であった。

 

分からない部分が取り払われ、頭の中でこういうことだったんだ、というぼやーんとしたものが渦巻いた。でも、言葉にできない。

 

それに、なんといえばいいのだろう、あの女性以上に女性らしいしぐさ、嫉妬に狂う姿、悲しむ姿など、全てが愛おしく見えてしまう。

 

恐らく私は、ヘドウィグに恋をしたんだと思う。

 

 劇中歌

 ヘドウィグアンドアングリーインチは、なんといっても劇中歌が素晴らしい。

怒りの1インチ、なんていう面白い歌もあるけれど、私はしっとりした、この映画の大切な歌である「TheOriginof  Love」や、「Wicked Little Town」が好きだ。

 切ない歌詞と、へドゥイグの心境が絶妙にマッチしていて見ているこっちの心が震わされる。

 また、劇中歌はマドンナがその楽曲の権利を手に入れようとしたそうだ。それほどまでに素晴らしい曲がたくさん歌われている。

 

ジョン・キャメロン・ミッチェル

原作・主演も務めたジョン・キャメロン・ミッチェルは、自身もゲイで、彼は第二次世界大戦前、父の仕事でドイツのベルリンに住んでいたそうだ。

 彼自身に片割れを探すというのは元々なかったにしても、やはり今よりも認められにくい時代を生きていた彼は、満たされない思いというのは多少あったのだと思う。それも、この物語の背景を形作る大きな要素となったのだろう。

 彼の写真を見ていると、なぜか引き込まれてしまうものがある。目の奥に寂しさを感じ、なんというのかなぁ、孤独を受け入れている……孤独を覚悟している、というような印象がある。本当に、不思議だが。

  

The Origin of Love とヘドウィグについて

この歌が、映画全体を引っ張っているという大切な歌。

神様に引き裂かれた片割れを探す、という神話を歌っている。

 ヘドウィグはこの歌を信じ、ずっと自分の片割れを探していた。

人を好きになっては裏切られ、片割れだと思っていた人たちはヘドウィグから去って行く。

 

恐らく、ヘドウィグにとって片割れだと本気で信じられたのはトミーだったんだと思う。でも、あんなに信頼していたのに、結局トミーにも裏切られてしまう。まぁそれは、彼の1インチに触れてしまったからなんだけど、それがなんとも切ない。

ヘドウィグはこの1インチのせいで彼が去ってしまったと思った部分もあるかと思うが、トミーは多分、受け入れられなかったというより、驚いて感情の整理がつかなかったんだと思う。そして、彼女を受け入れられる自信のなかったトミーはそのまま消えてしまう。

 

トミーがいなくなり、ヘドウィグはイツハクと結ばれる。でも、ヘドウィグはやっぱりトミーのことを忘れられなかったんだと思う。

イツハクとのセックスシーンがあるが、寂しそうで愛がない。イツハクは自分の片割れではなく、やはりトミーが片割れだとその頃も信じていたんだと思う。

 

そしてトミーが登場。ヘドウィグの歌を歌っているという衝撃。彼女はそれから狂ったよにトミーがライブする会場の近くで小さな声を張り上げる。トミーの人気は絶頂に。

やっぱり、ヘドウィグの歌がいいんだよなぁ、なんて改めて思ってしまう。なぜじゃあヘドウィグが売れなかったのかって言うと、ヘドウィグの自信のなさ、それはつまり、片割れがいないと思い込んでいた「足りない自分」だったからじゃないかなと思う。

 

トミーは歌いながら、彼女に別れを告げる。

トミーはきっと、歌で愛を伝えた。トミーは一緒にいることを選んだんじゃなくて、ヘドウィグにさよならを告げることが愛だと思ったのだと思う。

トミーは今でもヘドウィグのことを愛していた。でもきっと、受け入れることだけが愛じゃないんだよな。だからさよならを告げた。

 

ヘドウィグはトミーの愛を感じ、ここでやっと、片割れはいないのかもしれないと悟ったんじゃないか。

 

愛って深い。

  

エンディング

 片割れはいなかったんだと悟ったヘドウィグは、カツラを取り、まずはイツハクを解放してあげた。

イツハクもやはり、足りないものを埋めようとしていて、それをヘドウィグに求めていたんだと思う。でもそれは違って、自分がヘドウィグのようになりたいという気持ちを受け入れ、それを表現することだった。

 

ヘドウィグはそれから服も脱ぎ、全てを捨て去った。片割れなんか存在していなくて、自分の中に片割れがいたんだと。ただ、自分自身を認めることが、完全なる一人の人間になるということだったんだと悟ったんだと思う。

 

ずっと片割れを探してきたヘドウィグだったけど、トミーへの執着から解かれたとき、何も求めるものはなかったんだと、何も足らないものはなかったんだと悟った。だからこそすべてを捨て去り、新しい人生を歩んでいく……。

 

真っ暗な中を裸で歩いて行く姿が切ない。自信があるわけでもない。ただ彼は次の人生に進んで行く……。そんな感じに見えた。

 

 

ヘドウィグのこれから

これは私の想像するその後。

 

片割れはいないと悟り、全てを捨て去ったヘドウィグは、今までの歌をトミーに譲り、新しい歌を作るんだと思う。

内容はきっと、片割れは自分の中にいたと…そんな内容だ。

 

足りないものを探すんじゃなく、今のままで完璧な人間なのだと、美しいハーモニーで歌う。

もちろん、ヘドウィグは着飾ることもせず、短い髪で(薄化粧くらいするかもしれないけど)シンプルな服装で歌うんだろう。

 

そして、街の小さな片隅で、片割れを探しているような満たされない、という幻想の中に生きている人たちのために歌い続ける。これからの彼女が求めるのは、今を精一杯生きること。売れることでも、誰かに満たしてもらうことでもない。

 

満たされた彼女は、求めることもなく淡々と歌い続けていくんだろう。

 

 

ヘドウィグアンドアングリーインチを見て

人は、怒ったり嫉妬したりといったことを嫌う傾向がある。怒ったとしても表面は取り繕ったりするし、嫉妬も隠す。

でも、ヘドウィグはそれをしない。堂々と怒って、泣いて、嫉妬に荒れ狂う。

私が嫌っていた感情をもろに出しているヘドウィグだったけど、それがとても愛おしく見えた。すると、自分の中の怒りや嫉妬などの気持ちも受け入れられたような気がした。

私も何か、満たされない思いを常に抱えていて、それを満たすために今を生きるということをしている。でも、そうじゃないんだよなぁと思わされる。

誰かに認められるとか、上に立つとか、お金を持つとか、そういうことじゃなくて、今の自分を自分で認める。あれ、求めなくても、全部あるんじゃない? という気になる。

映画を見て少し経つと忘れてしまうのだけど。

何度見ても衝撃はいつも変わらずある。

この映画で私はヘドウィグになり、一緒に悲しみ、怒って嫉妬した。そして、私の経験値として積み重なっている感覚がある。

私が歳を重ねても、映画の中のヘドウィグはずっと変わらぬかわいい彼女のままだ。

これからも、恐らく何度でも見てしまうと思う。彼女に会いたくて。それと、自分自身を認めたくて。

本当に素晴らしい映画に出会えたと思っている。

これからも何度でも彼女に会いに行くつもりだ。

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引き裂かれた町の「あちら側」で生まれ育ったヘドウィグ冷戦中の東ベルリンで生まれ育ったハンセル。ラジオでアメリカのロックを聴いて育ち、いつかは自分も自由を手にしてロックンローラーになりたいと願っている。西に対する東。この対比はとてもわかりやすい。壁のむこうに見えるマクドナルドの看板の象徴する「自由」、さらにそれらの濃厚なエキスであるロックに憧れるハンセル少年。性転換をし、ヘドウィグと名を変えアメリカに渡り、かつての憧れの「自由」の中に身を置く彼(彼女)は、自分の生まれた東ベルリンを「あちら側」と呼んで歌う。そして歌の中にあるように、ヘドウィグはこちらとあちらの間にある「壁」であり、「橋」である。ヘドウィグはこちらとあちらにそれぞれ片足を入れながら不安定に聳え立つ「あいだの象徴」なのだ。叫ぶように自らの過去や境遇を歌うヘドウィグの姿は、ストーリーを追うごとにその内に育った疑問や悲しみを際立...この感想を読む

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