リアリティにあふれた緻密な描写が魅力の長編小説
今までの奥田英朗と少し違ったイメージ
今まで私が読んだ奥田英朗の小説といえば、「イン・ザ・プール」とか「ウランバーナの森」とか「ララピポ」とかだったので、このようにあらゆる描写が緻密に描き込まれた文体がちょっとイメージと違った印象だった。あえて言うと、こういうのも書くんだという感じだったと思う。裏切られたとかそういうわけでなく、同じ作家に違う印象の小説を出されるとちょっと嬉しくなってしまう時がある。この小説もそういう感じを持ちながら読み始めた。
元々この小説の時代設定である1964年(昭和39年)を含む1960年代~1970年代はとても魅力のある年だ。高度経済成長の時期だからかすべてに活気があるように感じられる。若者だって、デモとか学生運動とかヒッピーとかあらゆる面において勢いがあり、この時代背景の小説を読むとそこに生きる人々を羨ましく思ったりする。東海道新幹線が開通して、武道館ができて、テレビも出来て、東京オリンピックが開催されてという怒涛の年など体験したことがない。
この小説はその時代を背景にし、東京オリンピックが開催される日本、いわば東京のみに豊かさが集中していることを良しと思わない東京大学の学生が、その開催を阻止しようとたくらむ話である。土木作業員として従事する建設会社の名前とか、作られていく建設物の作業とかありとあらゆるものが緻密にリアルに描写されているため、実際にこのような事件があったのかと思わせるくらいだった。とはいえ、少し調べてみると実際とはもちろん違うところもたくさんあるためフィクションであることはわかるのだけど、その取材の力と量はかなりのものだと思う。それくらいにリアリティにあふれ、読み応えのある小説だった。
主人公 島崎国男
秋田の貧しい村に生まれながらも父親が違うこと(秋田のそのような狭い村でそのような色恋沙汰があるということに驚いたが、どのような理由があったにしろ、母親は生きづらい状況だったに違いない)で兄妹にはない頭脳があったのか、彼一人だけ出稼ぎに出ることなく東大に進学している。秋田の貧しい村の状況と豊かな東京では生活も人々もまったく違うだろう。東京と10年ほど遅れているくらいに感じるその描写は、とても同じ国とは思えなかった。それがよくわかる場面がある。国男が東京からみやげでサンドイッチを持って帰ったとき、目を輝かせたのは甥や姪でなく兄嫁だったということ。マヨネーズの味を彼女は知らなかったという。その一文だけで、どれほどその村が東京よりも遅れ、貧しい村なのかがよく分かる。
同じく秋田出身の出稼ぎ作業員が事故で死亡し、その妻が秋田から出てきて国男が彼女に付き添う場面がある。夫が死んだのに涙は流さず、それよりも東京見物を国男に頼む。色々めぐりため息をつき、彼女の言った「東京は祝福を独り占めしているようなとごろがありますねえ」という言葉は心に残った。夫が死んでこれからどうするのかということや、夫が死んでしまったことを悲しむといったことが全て後回しになってしまうくらいのカルチャーショックを隠し切れない彼女の今までの人生の来し方を考えると、悲しく重い気持ちになる。そしてそういった状況を目の当たりにして、豊かさが東京のみに集中していること、労働力としての出稼ぎ作業員の命の扱われ方の余りの軽さ、支配層への反抗心を膨らませ、国男はオリンピックを人質にとる計画を決断していく。その流れは自然で違和感がないため、どんどん物語に没頭していった。
島崎国男の弱さ
水も漏らさないような計画を練りながらも、国を相手のこの犯行は公安や刑事も気合の入り方が違う。物語の後半ではどこに行くのにも尾行がつき、絶対逃げられないようになってくる。そうなってくると国男は震え、弱気に宿から出ず、出るのにも勇気を得るためヒロポンを打ったりしている。このあたりの打たれ弱さは、このような大それた犯行をする男には似つかわしくないというか、そんなもので震えるくらいの男がそんなこと考えるのかとちょっと違和感を感じるところだった。東大の秀才であるし頭がいい分、この犯行は机上の計画に過ぎなかったのだろうか。兄が死に、自ら出稼ぎ作業員を同じ現場で働くことでプロレタリアートを体験したはいいけど、そこから走りすぎた感じもある。それほど愛着を持っていなかった兄と同じような境遇に身をおくことがこの犯行には必要だったかもしれないけど、そのあとがもう少し計画を練ったほうが良かったのではないかと思う。確かにオリンピックが迫ってくる以上時期は決まっているけれど、だとしたらもっと根性を据えてかかったほうが、読み手も感情移入しやすかったのではないかと感じた。
そして、こういう犯行をするには性根が優しすぎたのではないかという疑問は最後まで残ったままだった。読み手としての物語の入り込み具合も、少しここで弱くなったのを覚えている。
須賀忠の存在の意味
警察官僚の父を持ち、元華族の母親をもつ忠は、何から何まで島崎と対照的である。赤いスポーツカーを乗り回し、テレビ局で働き、その上私生活も華やかである。お金持ちもお坊ちゃんでありながらなにか憎めない面白い人物ではあるのだけど、この小説の中で言うと、あまり存在に重要性が感じられない。泳がせられては島崎の場所を刑事に教えてしまうという鈍くささのためだけにいるといっても過言ではない。その上そもそも島崎と忠は親しい友達同士でもないし、須賀がそれほど島崎に興味をもち独自に追いかける動機もよくわからないため、余計にその存在が疑問に思えた。
また島崎に自宅を爆破されたとはいえ軽微な被害だったわけで、島崎を憎むという動機も薄い。もっと言えば、この爆破事件で忠が父親に勘当された理由も分かりにくい(警察官僚だから余計な詮索をしないようにというだけでは余りに弱い)し、忠がいなくとも物語は動くのではないかと思う登場人物だった。
死に急ぐような最後
2度目の身代金も手に入れることができないまま、自ら変装し聖火台の元に爆弾を仕掛けようとする国男だったけど、彼はもはやこの計画が暗礁に乗り上げていることに気付いていたに違いない。公安や刑事の想像以上の執拗さ、物量作戦、それでも諦めなかった彼の姿勢は死に急いでいるようにも見える。
容姿にも恵まれ、東大にいくような頭脳をもち、どうしてそのような国相手の犯行を思いついたのかは彼しかわからない。マルクスや共産主義、そういったものの影響をそれほど多く受けたようにも見られない。こういうエリートの犯行や死を覚悟した行動を見ると、思い出すのが藤村操だ。エリート中のエリートの彼は厭世観を抱えたままその命を絶った。藤崎のように何かをやろうとしたわけではないが、その大きなものは彼の場合自分の内部に向かったのだろう。力の向かうベクトルがそれぞれ違っても、そこにはなにか共通点を感じた。
刑事に撃たれ、死んだかどうかわからない島崎だけど、きっと命を取り留めたのだと思う。その後彼は罪を償い、どのように国を救おうとするのだろう。そのあたりも読んでみたいと思った。
東京オリンピック2020
2020年にまた東京オリンピックが開かれる。東京で開かれる56年ぶりのこの式典に対して、意外にも反対デモが開かれていた。被災地や貧困層にこそお金を使うべきで、今オリンピックに使うべきではないというのが大まかな理由らしい。60年近くたっても日本のくたびれた部分は変わっていないような感じがして複雑な思いだった。個人的にはオリンピックは歓迎すべき祝典と感じていたのだけど、立場を変えればそういう反対運動をする人たちもいて当たり前なのかもしれない。
そしてこのような見方ができるのもこの小説を読んだからに他ならないわけで、そういう意味だけでもこの小説を読んでよかったと思える。
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