夢のフィールド - フィールド・オブ・ドリームスの感想

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夢のフィールド

4.04.0
映像
4.5
脚本
4.0
キャスト
4.5
音楽
4.0
演出
4.0

目次

ファンタジーとはちょっと違う

理解ある妻とかわいい子どもに恵まれ、小さな農場を経営し、平凡だけど幸せに暮らすひとりの男が、自分を信じて非常識な夢を叶えるという感動のファンタジー・・・というのとはちょっと違う、1989年公開の作品。統合失調症の主人公の話かと思えばそうでもなく、妻アニーの夢の中にもアプローチしてくる“不気味な存在”の声から物語が展開する。仕舞いには、小さな娘まで予言をしてしまう。

不思議の国のアリスよろしく、すべては一瞬の幻だったという設定なのだろうか。人生の折り返し地点に立ち、このまま終わりたくないとの主人公の心情が見せた、覚めない妄想だったのだろうか。映画を観終わったあと、そんな風に思えた不思議な作品だった。サブタイトルは、“失ったものたちは帰ってくる~若き日の父に姿をかえて~”となっている。

映画の中でも“ゴースト”という表現が使われていたが、いくつかのシーンでは悪い夢でも見ているような、背筋がゾッとするような感覚に襲われる。両親の若いころの写真をみて不思議な心境になった経験は誰でもあるだろう。多くの子どもは、生活のために生きる親の姿しか知らないが、親は最初から自分の親として生まれたわけではなかった。青春時代もあったし、未来を夢みた頃もあった。そのことに気づいたときの言い知れぬ感情。わたしも小学生の頃には、まだ若かったころの両親に会いに行きたいと思った記憶がある。

懐かしい人たちとの再会

しかしこの映画は、父親が若かった時代にタイムスリップするのではなく、亡くなった父が若いころの姿で現世に戻ってくるという、なんだか気味が悪い物語なのだ。亡くなった人が戻ってくるのはこの世に何か思い残したことがあるためだという、仏教的な宗教観のせいかも知れないが。「シャーリー・マクレーンじゃだめなのか?」と問いかける妻アニーの台詞もあったように、ファンタジーというよりオカルトに近いのだ。

70年代の世界では主人公からの招きを意味不明な台詞で断った人物が、現世で若かりし頃の姿にもどってヒッチハイクをするシーンも怖かった。老人が「たとえ騙されても信じたい」と言っていた魔法のチカラのせいで、老人の意志に反して若い頃の夢が独り歩きしてしまったのだろうか。肉体は有限だが、魂はどこまでも自由ということか。そう考えると、いまも自分の魂がどこか好きな場所で自由に飛びまわっているような気がして少し落ち着かない。

そんな“浮かばれない”大勢のゴーストが野球をはじめる。彼らをフィールドへ呼び寄せた想念とは一体どんなものだったのかと、ホワイト・ソックスのスキャンダルについて初めて調べてみた。ジョー・ジャクソンは、野球の神さまと称されるベーブ・ルースよりも前の時代に活躍した悲運の野球選手だ。

ホワイト・ソックスのスキャンダル

恵まれない家庭に育ったジョーは、足に合うスパイクを持たず裸足でプレイしたことから“シューレス・ジョー”と呼ばれたのだとか。1911年(明治44年)から、2001年にイチローが記録を更新するまで90年のあいだ、シーズン安打数233本というルーキー最多安打記録を保持していた。

そんな人気のスター選手が、世界中の野球ファンを八百長疑惑というやり方で裏切ったという「ブラック・ソックス事件」。テレビ出演で事件の真相を明らかにしようという前日、ジョーは心臓発作とやらで帰らぬ人となってしまった。事件にはマフィアも絡んでいたようだ。アメリカ人にとっては何とも切ない、懐かしい痛みなのだろう。ポルトガル語の「サウダージ(Saudade)」とは、こういう感情を表現している言葉なのだろうと思った。

おそらく、「失ったものたち」とは過ぎ去った時間のことなのだ。ほんの些細な行き違いのせいで現実としてこの世界に姿を現さなかったものたち。大リーグでバッターボックスに立ってピッチャーにウインクするという、青年ムーンライト・グラハムのささやかな「夢」もそのひとつだ。

八百長試合のかどで告発され、人生そのものだった野球界から永久追放された選手たちがフィールドで過ごすはずだった時間であり、芝の感触、ボールやミットの匂いだ。主人公がそんな失われた時間をとり戻すかのように、自分よりも若い父親とキャッチボールをする姿は涙を誘う。人は刻々と流れる時間の中で年を取り、容姿は変貌して留まることがない。果たしてどの姿がその人の真の姿なのだろうか。

遠い少年時代を象徴する野球というスポーツや、人生の後悔とともに息を吹き返す父親へのコンプレックス。60年代への郷愁をベースに展開するこの物語は、多くの少年が成長の過程で見せる父親への反発、そのあとに押し寄せる後悔や罪悪感、表舞台から消えたかつてのヒーローへの絶ちがたい思慕の念。そんなさまざまな人生の重たいものが一度に押し寄せてくる。

人に話せば些細なコンプレックスが、誰の心の中にも魚の小骨のようにずっと刺さっている。「それを造れば、彼が来る」という声の主は、ジョー・ジャクソンであると同時に主人公自身の潜在意識だった。現実の世界では取りこぼされた一瞬、一瞬も、どこか別の時空を超えた世界~アナザー・ワールドにはちゃんと存在されていて、望めばいつでも再生することができる。そんな心優しいメッセージを感じることができた。

サリンジャー

ケビン・コスナー演じる主人公のレイ・キンセラとともに、大陸を走り回って謎を解き明かす相棒テレンス・マンは、サリンジャー(Jerome David Salinger)がモチーフになっているようだ。「ライ麦畑でつかまえて」で一躍世界に名を馳せるも晩年には才能に封をし、筆を折ってしまった謎の多い作家サリンジャー。1961年(昭和36年)の作品「フラニーとゾーイ」は、我が家の本棚にもずっと眠っている名著だ。生前はかなりの偏屈者として知られたサリンジャー。レイ・キンセラがアパートにおしかけたときも、テレンス・マンは「ライ麦畑」の主人公ホールデンのように軽い嘘をついている。

シューレス・ジョーに招かれたテレンス・マンがサトウキビ畑へと消えていく場面は、ちょっと理解に苦しんだ。その直前には少年ムーンライト・グラハムが老人の姿になって戻って行ったばかりだったし、ほかの選手も楽しそうに茂みの中に消えて行った。トウモロコシ畑は本来の、“戻るべき場所”の象徴であるはずなのだ。実際のサリンジャーは91歳という高齢で天寿を全うしたので、「最初からゴーストだった」という設定には無理がある。モーテルで読んだ新聞に載っていた父親の広告が何かを暗示していたのだろうか。などとあれこれ考えた。

かつて自分の価値観をすっかり変えてしまうほどの強い影響力をもつサリンジャーの呪縛から、主人公が開放されるために必要な儀式だったのかもしれない。脚本家で監督のフィル・アルデン・ロビンソンからのオマージュであり、ある意味では60年代と決別したのかもしれない。観終わってずいぶん経ってからそう思った。

いつでもアクセスできる奇跡のフィールド

この映画のラストシーンは、夢の球場へと集まってくるたくさんの車の長蛇の列だ。多くの人があの頃を懐かしんで、同じ場所を目指す。その場所では、シューレス・ジョーは八百長試合などやっていなかったと弁明してくれたし、サリンジャーは当時の辛かった胸の内を告白し、癒され、新しい作品を書くと約束してくれた。まだ若く美しく、夢にあふれた青年ジョン・キンセラは父親の真の姿だ。そんな父親と日が暮れるまでキャッチボールができる、誰もが憧れる夢のフィールドだ。

主人公のように生活の糧であるトウモロコシ畑をつぶさなくても、わたしたちはいつだって心の中で懐かしい人たちに逢える。誰の心の中にも、あのフィールドは存在するのだろう。



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