この作品のテーマについて
一清が人を信じられるようになるまでのストーリー
作者がこのシリーズを通して伝えたかった1番のテーマは「信じる意志はなによりも強く、状況や人をも変える力がある」、ということではないかと考えている。幼少期に「加賀様」であった一清の一家が皆殺しにあったことによって、とげとげしくはないものの、人を信じられず、人に任せることが苦手な大人になっていた一清。しかし自由奔放でお気楽、わがままな千沙姫との生活を通すことによって、驚き、戸惑いながらも千沙に影響されていく様子が描かれている。実際に作者も、作品の中で「信じる」「誰も信じてない」等の言葉を多く使用している。どのシーンから一清の変化が感じられるか、下記にて拾っていきたいと思う。
一清が千沙から受け始めた影響
『わがまま姫の反乱』にて、千沙が菊に同情して独断で連れ出す場面がある。その際、父親の安住ですらも千沙の独断だと信じ、一清を疑うことをしなかった。この際に、疑われない人格の持ち主である千沙を、一清がすごいと感じていることが分かる。この菊の件以来、一清や周囲の人間の、千沙を見る目が変わったように思う。
『お伽話がきこえる』シリーズ以降の、一清の変化
行方不明になったふえを捜索している最中、囮の件をふえにも伝えていなかったと知った大谷が、「誰も信じてないってゆーんだぜ」と一清に告げているシーンがある。その際、一清は大谷に言い返すことができなかった。その後、一清が千沙に「自分のせいで人がたくさん死んでしまうことがあって(省略)だから決して信じてないわけじゃないんです」と述べている。人を信じることの大切さや、「我がままに」生きることの意味を千沙を通して目の当たりにしてきた結果、自分を鑑みているのが分かる。そしてその後、自分に何かあったら国を千沙に任せる、と人を信じる行為をとった。これは一清の大きな変化だと考えられる。以前の一清であれば、そのような事態には決してならないよう、菊の件の時のように最悪人を見捨てる覚悟だってしたであろう。
番外編でも「信じる」が出てきている
大谷が鼓という遊女との過去にて、どうして「やけに高貴にこだわる」のか、が描かれている。「高貴な人は違うんだ、ちゃんと信じてくれるんだぜ」、と「信じてくれる」ことを至高のような笑顔で述べている。
よって、千沙と一清を中心に、このシリーズのキャラクターすべてを通して、作者が伝えたかったことは、信じることは何よりも尊い、ということではないかと推察する。単純明快なテーマ、姫と殿様というわかりやすい設定でありながらも、魅力的なキャラ設定により読者を飽きさせることなく完結している。
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