「ゆとりですがなにか」は何を伝えたいドラマだったのか―タイトルに込められた想いとは?―
宮藤官九郎が脚本を書いたドラマ「ゆとりですがなにか」は実に魅力の詰まった作品である。今回は、その魅力と共に本作が何を伝えたかったのか、考察したい。
主役から脇役まで抜け目のない、多彩な登場人物達
本作には個性豊かなキャラクターが多く登場する。後輩に振り回される上司の正和はじめ、結婚したいキャリアウーマン、就活中の大学生、風俗店の勧誘、妊活中の夫婦、童貞…。ざっと挙げてみても多種多様な所属の人々であり、これらの人々が作中で絡み合いながら、波乱を起こしたり、繋がったりしていく様を見るのはそれだけで面白い。ここで着目したいのは、あえて、それぞれが抱えている課題にスポットライトを当てて描かれている、という点だ。課題とはなにか。答えのわからないもやっとした気持ち、正しい道を選べているか、ときに間違ってしまう人の姿…本作では、これらが丁寧に描かれているように思う。
え?そうなっちゃうの?と少し驚くような登場人物たちの選択
ゆとりのガールズバーでのアルバイト、からのまりぶとの不倫、真摯に接していたつもりが新任教師を泣かせてしまう山路(パワハラ問題に発展する正和)、そして茜ちゃんも不倫。意外な選択、一見、それ間違ってない?と思ってしまうような行動。もし自分が同じ状況だったらそうなっちゃうかも…と共感はできないけれど、どこか憎めないのは何故か。
作中に多く登場する「許しのシーン」
作中には、正和が茜ちゃんの不倫を許すシーンや、山路が未熟な教育実習生を諭すシーン、まりぶが父を許すシーンなど、様々な許しの場面が登場する。問題(失敗)と許しが同じくらいの密度で描かれているように思う。上記の憎めない理由は、簡単に言えば、人間間違っちゃうときもあるよ、許しあっていこうよ、と思えるからではないだろうか。
「ゆとりですがなにか」というタイトルの意味
本作では「ゆとり世代は本当にゆとりなのか…?(公式HPより引用)」の問いかけが指し示すように、ゆとり世代の、ゆとりではない姿、予想外の展開に戸惑いながらも奮闘する姿が描かれている。そんな頑張る彼等を見て、私には、「ゆとりですがなにか」というタイトルは「失敗したっていいじゃない」という意味が込められているように見える。また、もう一つの意味として、「これだからゆとり世代は」は、失敗を咎める言葉だが、その言葉に対して「ゆとりじゃないし!」と答えるよりは「ゆとりですが、なにか?」と答える方がたくましいこと(現実場面で上司にこれを言ってはいけないと思うが…。)。ゆとりでありながら、最後には自分なりの形を見つけていく主人公達のたくましさを、今のゆとり世代、ひいてはそれを見守る大人達にも示したかったのではないだろうか。
まとめ
ゆとり世代の奮闘する姿を描いたドラマ「ゆとりですがなにか」は、様々な問題とそれを許すシーンから構成されている。タイトルには「失敗したっていいじゃない、人間だもの」といった意味が込められており、失敗しながらも最後には自分の軸を見つけていくゆとり世代の姿を、観る人に示している。本作は、失敗して上手くいかなくたって一生懸命生きる人達を、愛のある視点から描いており、観た人の心の芯をほっこり優しく温めてくれる作品だと言えるだろう。
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